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===002===

第8話:春光の残響

 三月に行われた帝都実業との練習試合……上杉奏多追悼試合での劇的なサヨナラ勝ちは、俺たち青葉学院野球部に、大きな熱狂と、そして確かな自信をもたらした。


 あの試合のことは新聞の地方欄にも小さくだが取り上げられ、校内でもちょっとした話題になった。


「今年の青葉は何か違うぞ」そんな期待感が、グラウンドだけでなく、学校全体を包み込んでいるような気がした。


 俺の注目度も、あの試合を境に格段に上がった。

 以前は「誰だ、あの一年は?」という好奇の視線が多かったが、今では「青葉の新しい秘密兵器」「第二のエース」なんて囁かれるようになっている。


 もちろん、それは悠人のノートに記された理論と、俺自身の経験が、この体を通して発揮された結果だ。それでも、誰かに認められるというのは、素直に嬉しい。



 桜の花びらが舞い散り、新しい学年が始まった。俺は二年生に進級し、高木先輩は最上級生として、最後の夏にかける並々ならぬ想いを胸に、チームを引っ張っている。


 新入部員も加わり、グラウンドは活気に満ちていた。

 俺は、自分の練習に集中しながらも、時折、新入生たちのぎこちない動きに、去年の悠人の姿を重ねてしまうことがあった。そんな自分に苦笑する。俺自身も、この体の「一年生」のようなものなのだから。


 新学期が始まって数週間。俺の日常は、野球と、そして……来栖悠人としての生活に、少しずつだが馴染み始めていた。


 朝、姉の綾音さんに「悠人、朝ごはんちゃんと食べなさいよ! また野球の練習で倒れるわよ!」と小言を言われながら食卓につき、妹の小春に「お兄ちゃん、最近ちょっとカッコよくなったんじゃない? もしかして、彼女でもできた?」とからかわれる。

 そんな何気ないやり取りが、以前の俺にはなかった、温かいものとして感じられるようになっていた。


 それでも、ふとした瞬間に、彼女たちの視線に戸惑いを覚えることがあった。


 特に綾音さんは、時々、俺の顔をじっと見つめ、何かを確かめるような、探るような目つきをすることが増えた気がする。


「悠人……あなた、最近、本当に変わったわね……。まるで……」彼女は、そこまで言って口ごもり、首を横に振る。「ううん、なんでもない。頑張ってるのは、いいことよ」


 その言葉の裏に隠された、言いようのない違和感。

 それは、俺の心に小さな棘のように刺さった。半年以上、この体で生活している。彼女たちが、「悠人」の変化に気づかないはずがない。その変化が、あまりにも根本的で、まるで別人のようだということに。


 俺は、その度に、自分が「上杉奏多」であることを、そしてこの体が「来栖悠人」のものであることを、改めて強く意識させられた。

 この偽りの日常は、いつまで続くのだろうか。そして、俺は、いつまで「来栖悠人」を演じ続けなければならないのだろうか。正体を明かすべきか、このまま悠人として生きるべきか……その葛藤は、野球に打ち込むことで一時的に忘れられても、夜、一人になると、重く俺の心にのしかかってきた。


 そんな俺の心の揺らぎを、敏感に感じ取っている人物がもう一人いた。


 幼馴染の橘莉子だ。


「ねえ、ユウト。あんた、最近、なんか変だよ」


 ある日の放課後、グラウンドのフェンス越しに、彼女はストレートにそう言った。


「……何がだよ」

「なんかさー、前みたいにオドオドしてないのはいいんだけど、時々、すっごい遠い目してるっていうか……。まるで、ここにいないみたい。大丈夫なの?」


 野球嫌いの彼女が、俺の練習を見に来ること自体、珍しい。その真剣な眼差しに、俺は言葉に詰まった。


「……別に、何でもねえよ。夏の大会が近いから、ちょっと集中してるだけだ」

「ふーん。ならいいけどさ。……まあ、あんたが本気で野球やってるの、ちょっとだけ見直しはしたけどね」


 莉子は、そう言って悪態をつきながらも、どこか心配そうな表情を浮かべていた。


 □ ■ □


 季節は、春から初夏へと移り変わろうとしていた。

 俺は、野球部での練習と、悠人のノートの研究、そして、この体のスタミナ強化に明け暮れた。高木先輩とのエース争いも、ますます激しさを増していく。


 だが、心の奥底では、常に一つの不安が渦巻いていた。

 いつまで、ここにいられるのだろうか……。そして、本当の来栖悠人は、どこへ行ってしまったのだろうか……。


 その答えは、まだ見つからない。


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