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第9話 歪む現実

 ∞§ΣΟ・☆彡∞  ∞§ΣΟ・☆彡∞


 ……頭が、割れるように痛い。なんだろう、この感覚……。


 重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、そこは、見慣れたはずの自分の部屋の天井だった。


 でも……なんだか、すごく久しぶりに見たような……そんな奇妙な感覚に襲われた。


 体を起こそうとして、ベッドがきしむ音に、なぜかびくりと肩が震えた。


 記憶が、まるで濃い霧に包まれたみたいに、はっきりしない。


 ……あれ? 僕、何してたんだっけ。確か、今日はは……いや、いつだ? そうだ、確か……地区予選決勝。青葉学院の試合を、テレビで見ようとしていたはずだ。

 ……上杉君が、球場に現れなくて……それで……。


 そこまで思い出して、僕は自分の思考に、強烈な違和感を覚えた。

 なんで決勝戦を見ようとしていたのに……普通に目覚めるんだ。

 慌ててベッドの脇に置かれたデジタル時計に目をやる。そこに表示されていたのは、「4月15日」という、信じられない日付だった。


「……は? 4月……?」


 思わず声が漏れる。僕の知っている「今日」は、7月のはず。混乱する頭。震える手で、机の上のカレンダーを掴む。

 間違いない。今日は4月だ。しかも、ご丁寧に「2年生スタート!」なんていう、書き覚えのない能天気なメモまである。


 一体、何がどうなってるんだ……? まるで、長い、長い夢でも見ていたような……。いや、夢にしては、記憶の空白期間が長すぎる。


 視界に入った鏡に映った自分。またしても違和感。そこに映っていたのは、紛れもなく僕の顔だが……何かが違う。

 以前よりも頬のラインがシャープになっている。そして、起き上がって全身を映すと、記憶にある自分自身の姿と明らかに違っていた。

 広くなった肩幅。そういえば、パジャマ代わりのTシャツの着心地も、以前より窮屈だ。

 全体的に筋肉がついており、ひょろひょろで運動音痴な僕の体じゃない。


 ひどく怯えた鏡の中の僕が映っている。そして混乱しきった表情をしていた。


「悠人ー? 起きてるー? もうお昼過ぎてるわよ!」


 階下から、綾音姉ちゃんの声が聞こえた。その声に、なぜかホッとしたと同時に、言いようのない不安がこみ上げてくる。


 夢のような現実のようなフワフワした頭を強く振り、ふらつく足取りでリビングへ向かった。


「あら、やっと起きたのね。顔色、すごく悪いけど……大丈夫?」


 キッチンで昼食の準備をしていた綾音姉ちゃんが、僕の顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、彼女の瞳が、みるみるうちに潤んでいくのが分かった。


「……悠人? その雰囲気……悠人なの?」


 彼女は、震える声でそう言うと、僕に駆け寄り、強く抱きしめてきた。温かくて、でも、どこか必死な力だった。


「姉ちゃん……? どうしたんだよ……?」


 僕の記憶の中の姉ちゃんは、こんなに感情を露わにする人じゃなかったはずだ。


「お兄ちゃん! その締まりのない顔……元の……元の、お兄ちゃんに戻った……!」


 妹の小春も、スマホを放り出して僕に飛びついてくる。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。


 元の僕に戻った……? 一体、どういうことなんだ……?


 僕は、姉と妹の、喜びと安堵が入り混じった嗚咽の中で、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



 彼女たちの話によると、僕はここ数ヶ月……いや、去年の夏からずっと、まるで別人のように活動的で、自信に満ち溢れ、そして何よりも、野球に打ち込んでいたらしい。

 青葉学院野球部のエースとして、『上杉奏多追悼』練習試合では帝都実業を破る大活躍をした、と。


 野球? 俺が? あの上杉君がいた野球部で? 全く、信じられない話だった。僕の記憶は、上杉君が球場に来なかった、あの夏の決勝戦の前で途切れているのだから。


 その日、僕は混乱したまま学校へ向かった。


 教室に入ると、クラスメイトたちが、僕の顔を見てヒソヒソと何かを噂している。そして、野球部の連中からは、やけに馴れ馴れしく声をかけられた。


「よう、来栖! 今日のピッチング、期待してるぜ!」

「この前の試合、マジ神がかってたよな!」


 全く身に覚えのない称賛と期待の言葉。僕は、何も答えられず、ただ曖昧に笑うしかなかった。

 授業の内容も、ほとんど頭に入ってこない。この異常な状況に耐えきれず、僕は体調不良を訴えて早退した。


 家に帰る途中、公園のベンチで一人、頭を抱えていた。


 どれくらいそうしていたんだろう……不意に声をかけられた。


「……来栖君……。大丈夫?」


 顔を上げると、そこに立っていたのは、上杉美波さんだった。亡くなった上杉奏多君の双子の妹で、僕と同じクラスの……。彼女は、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。


「……上杉さん……」

「今日、学校、早退したから……。顔色、すごく悪いよ」


 彼女の優しい言葉に、僕は張り詰めていたものが切れたように、思わず自分の状況を話し始めていた。


「……あのさ、俺……いや、僕、なんだか……ここ数ヶ月の記憶が、全然ないんだ。まるで、長い夢でも見てたみたいで……」


 美波さんは、驚いたように僕の顔を見た。そして、何かを考えるように、じっと僕の目を見つめてくる。


「夢の中で、僕……なんか、すごいピッチャーになってて……。それで、美波さんと、すごく親しくなってたような……そんな気がするんだ」


 口にしながら、ぼんやりとした夢の中の光景が、断片的に頭の中に蘇ってくる。

 マウンドでボールを投げる感覚。仲間たちの声援。そして……美波さんの、優しい笑顔。


 美波さんは、僕の話を黙って聞いていた。そして、ポツリと呟いた。


「……私も……最近の来栖君を見てると……時々、夢の中にいるみたいだって……思うことがあったの……」


 彼女の言葉は、僕の混乱をさらに深めた。彼女が見てきた「最近の来栖悠人」と、僕が見ていた「夢」。それが、奇妙な形で重なり合っている……?


 その夜、僕は自室で、机の上に置かれていた「究極の野球理論ノート」を、改めて手に取った。


 去年書いた覚えのあるページの後ろにも、びっしりと文字や図が書き込まれている。それは、僕自身の筆跡ではあるけれど、書いた記憶が全くない。


 恐る恐るそのページを読み進めると、そこには、僕が構築した理論を実際に試したかのような、詳細な実践記録や、その結果に対する所感のようなものが、走り書きで追記されていた。


 例えば、「このリリースポイントで、この腕の振りならば、理論上はスライダーの横変化が最大になるはずだ」という僕の記述の横には、「この理論、本物だ! 実際にこの通りに投げたら、ありえないくらい曲がった! ただし、今のこの体では、数球で腕が悲鳴を上げる。もっと下半身と体幹を鍛え上げないと、この完璧な理論通りの連続投球は不可能だ。悠人、お前の頭脳は本物だよ……この体さえ追いつけば……!」といった、理論の正しさへの驚きと、それを十全に発揮できない肉体へのもどかしさが記されたようなメモが書き加えられている。


 ノートの端々に、時折、走り書きのような文字で、独特の言い回しが記されているのを見つけた。

「魂のエースストライク!」「雷鳴の一球!」「これは……?」


 そのフレーズに、僕は強烈なデジャヴを感じた。そうだ、この言葉……テレビで何度も聞いた、亡くなった上杉奏多君が、クラスでよく口にしていた、彼のキャッチフレーズじゃないか……!


 全てのピースが、カチリと音を立ててはまった気がした。

 僕の長い夢。鍛え上げられた体。野球部でのエースとしての扱い。美波さんの言葉。そして、このノートに記された、僕の理論を実践した記録と、上杉君の魂の叫びのようなキャッチフレーズ。


「……まさか……そんな」


 ありえない。でも、それ以外に、この状況を説明できる言葉が見つからなかった。


 上杉奏多君の魂が……僕の体に……入っていた……?

 その信じがたい可能性に思い至り、僕は全身から血の気が引いていくのを感じた。

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