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009 家族

 学校から帰宅した俺は、リビングで新聞を拡げた。

 以前は習慣として、毎日最低でも三紙は、隅々まで目を通していた。


 だが、残念ながら我が家は一紙しかとっていない。

 これ以上、新聞を購読するのも大変だろう。


 明日からは、学院の図書室で読むことにしようと思っている。

「……ふう。それにしても、初日から職員室に呼ばれるとは思わなかった」


『夢』とは違う人生を踏み出せたのはいいが、今日はいろいろあった。

 しかも、思わぬ出会いが。


吉兆院きっちょういん名出ないでか……」

 二人は、俺が海外で活動していた頃に、会社の代表となったはずだ。直接の面識はないのはそのせいだ。


 海外に出てからの俺は、海外企業やその重役や社員たちの情報を調べるのに忙しく、国内企業のことはほとんど頭から抜けていた。

 どれだけ思い返しても、吉兆院優馬と名出琴衣という名刺は、もらっていない。


 もし一度でも名刺交換していれば覚えている。

 名刺はあとで何度も見返し、必要な情報を頭の中にたたき込んだはずなので、これは確かだ。


 つまりあの二人とは、公の場で会ったことはない。

「あれ? おにいちゃん、帰ってたんだ」


「帰ったのはたった今だぞ。冬美ふゆみの方が早かったんだな」

「わたしは近所だからね」


 妹の冬美はリモコンを手に取り、テレビをつけた。

『夢』の中で俺たちは、すでに兄妹間の断絶がおこっており、同じ部屋で過ごすなどありえなかった。


 俺が一方的に妹を見下していて、妹はそれを敏感に感じ取っていたからだ。

 その後、妹はすぐに反抗期に入った。


 しばらくすると帰りが遅くなり、髪を染め、夜遊びすることが多くなった。

 そのせいでさらに距離が開き、顔を合わせると、どちらかともなく舌打ちして、顔を背けるようになっていた。


「なあ冬美」

「なあに?」


「母さんは? 今日、パートないだろ。どこに行ったんだ?」

「お寿司つくってもらったから、取りに行ってくるって」


「『まるよし』に入っている鮮魚店か?」

「母さんが行くんだから、そうでしょ」


『まるよし』は、母のパート先のスーパーだ。

『夢』の中では、入学式の日に寿司を食べた記憶がないので、この辺も違う。


 これは、妹との関係が改善したからだろう。

 妹とはこの半年で、ずいぶん打ち解けてきた。


 どうやらあの面談の日よりもっと前から、俺は妹を見下していたようで、最初は話しかけてもかなり邪険にされた。

 一ヶ月もすると普通に会話できるようになり、いまではこうして同じ空間で一緒に過ごすまでになった。


 事件の再現ドラマを見ている妹の横顔は真剣だ。

 少しおかしくなった。


 そもそも妹はまだ中学二年生。

 去年は、教師から俺と比較されて、さぞ嫌な気がしただろう。


 クラスにもあまり馴染めていないとも聞いていた。

 今年は新しいクラスだし、妹ならうまくやるだろう。


 うまくいかないことがあっても、俺なら助けてやれるかもしれない。

「冬美、もし困ったことがあったら、俺に言えよ」


 五十年以上生きた経験がある。

 大抵のことなら、なんとかしてやれる。


「おにいちゃん、キモい」

「……そうか。キモいか」


「でも、ありがと」

 妹はテレビを消して、階段を上っていってしまった。


 俺も新聞を折りたたみ、もとの場所へ戻してから二階に上がった。

 部屋で私服に着替えてから、机の上の本を開いた。


 欧州で働いていたとき、ドイツ語やフランス語など、優先度の高い言語はすぐに習得したが、イタリア語は勉強の途中だった。


 北米では、スペイン語を中心に勉強していたので、時間ができたらやろうと思って、そのままになっていた。


 あの進路面談の日から半年が経過した。

 やることがなかったので、これまで覚えた言語の総ざらいをしている。


 家族は受験勉強していると思っているようだが、誤解を解くようなことはしなかった。

 それと、俺がかつて属していた会社――荘和そうわコーポレーションについても調べた。


 といっても、インターネットもない時代だ。

 会社を三度ほど見に行ったが、社員と接触はしなかった。


 俺が入社してからめられるまで、社長は二回代わっている。

 いまの社長に恨みはないが、荘和コーポレーション自体は残しておきたくないので、そのうち必ず潰す。


 それと俺をめた上司は、俺が欧州から出向する少し前に、重役待遇で中途入社してきたはずだ。

 前職は『フェニックス・ファンド』という現地の会社法人だった。


 当時の俺は、上司の過去について調べていない。調べる必要がなかったからだ。

 もちろんこの半年の間に『フェニックス・ファンド』のことを調べたが、まだ存在していなかった。


 上司はおれより二、三歳上のはずだから、いまはまだ高校か大学生のはずだ。

 一度だけ、上司が学生時代の友人と町中で会ったのを見たことがある。


「もしかするといまも、アメリカのどこかにいるのかもしれないな」

 階下で音がした。母が帰ってきたのだろう。


 父は平凡なサラリーマンで、この頃の俺は、両親にイラついていた。

 なぜこうも平凡なのだろうと、身勝手な理由でさげすんでいたと思う。


 この頃俺は、周囲がまったく理解してくれないと考えていたが、原因は俺にあったように思う。

 なんにせよ、『夢』と同じ道を歩まなくて、本当に良かった。


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