学校から帰宅した俺は、リビングで新聞を拡げた。
以前は習慣として、毎日最低でも三紙は、隅々まで目を通していた。
だが、残念ながら我が家は一紙しかとっていない。
これ以上、新聞を購読するのも大変だろう。
明日からは、学院の図書室で読むことにしようと思っている。
「……ふう。それにしても、初日から職員室に呼ばれるとは思わなかった」
『夢』とは違う人生を踏み出せたのはいいが、今日はいろいろあった。
しかも、思わぬ出会いが。
「
二人は、俺が海外で活動していた頃に、会社の代表となったはずだ。直接の面識はないのはそのせいだ。
海外に出てからの俺は、海外企業やその重役や社員たちの情報を調べるのに忙しく、国内企業のことはほとんど頭から抜けていた。
どれだけ思い返しても、吉兆院優馬と名出琴衣という名刺は、もらっていない。
もし一度でも名刺交換していれば覚えている。
名刺はあとで何度も見返し、必要な情報を頭の中にたたき込んだはずなので、これは確かだ。
つまりあの二人とは、公の場で会ったことはない。
「あれ? おにいちゃん、帰ってたんだ」
「帰ったのはたった今だぞ。
「わたしは近所だからね」
妹の冬美はリモコンを手に取り、テレビをつけた。
『夢』の中で俺たちは、すでに兄妹間の断絶がおこっており、同じ部屋で過ごすなどありえなかった。
俺が一方的に妹を見下していて、妹はそれを敏感に感じ取っていたからだ。
その後、妹はすぐに反抗期に入った。
しばらくすると帰りが遅くなり、髪を染め、夜遊びすることが多くなった。
そのせいでさらに距離が開き、顔を合わせると、どちらかともなく舌打ちして、顔を背けるようになっていた。
「なあ冬美」
「なあに?」
「母さんは? 今日、パートないだろ。どこに行ったんだ?」
「お寿司つくってもらったから、取りに行ってくるって」
「『まるよし』に入っている鮮魚店か?」
「母さんが行くんだから、そうでしょ」
『まるよし』は、母のパート先のスーパーだ。
『夢』の中では、入学式の日に寿司を食べた記憶がないので、この辺も違う。
これは、妹との関係が改善したからだろう。
妹とはこの半年で、ずいぶん打ち解けてきた。
どうやらあの面談の日よりもっと前から、俺は妹を見下していたようで、最初は話しかけてもかなり邪険にされた。
一ヶ月もすると普通に会話できるようになり、いまではこうして同じ空間で一緒に過ごすまでになった。
事件の再現ドラマを見ている妹の横顔は真剣だ。
少しおかしくなった。
そもそも妹はまだ中学二年生。
去年は、教師から俺と比較されて、さぞ嫌な気がしただろう。
クラスにもあまり馴染めていないとも聞いていた。
今年は新しいクラスだし、妹ならうまくやるだろう。
うまくいかないことがあっても、俺なら助けてやれるかもしれない。
「冬美、もし困ったことがあったら、俺に言えよ」
五十年以上生きた経験がある。
大抵のことなら、なんとかしてやれる。
「おにいちゃん、キモい」
「……そうか。キモいか」
「でも、ありがと」
妹はテレビを消して、階段を上っていってしまった。
俺も新聞を折りたたみ、もとの場所へ戻してから二階に上がった。
部屋で私服に着替えてから、机の上の本を開いた。
欧州で働いていたとき、ドイツ語やフランス語など、優先度の高い言語はすぐに習得したが、イタリア語は勉強の途中だった。
北米では、スペイン語を中心に勉強していたので、時間ができたらやろうと思って、そのままになっていた。
あの進路面談の日から半年が経過した。
やることがなかったので、これまで覚えた言語の総ざらいをしている。
家族は受験勉強していると思っているようだが、誤解を解くようなことはしなかった。
それと、俺がかつて属していた会社――
といっても、インターネットもない時代だ。
会社を三度ほど見に行ったが、社員と接触はしなかった。
俺が入社してから
いまの社長に恨みはないが、荘和コーポレーション自体は残しておきたくないので、そのうち必ず潰す。
それと俺を
前職は『フェニックス・ファンド』という現地の会社法人だった。
当時の俺は、上司の過去について調べていない。調べる必要がなかったからだ。
もちろんこの半年の間に『フェニックス・ファンド』のことを調べたが、まだ存在していなかった。
上司はおれより二、三歳上のはずだから、いまはまだ高校か大学生のはずだ。
一度だけ、上司が学生時代の友人と町中で会ったのを見たことがある。
「もしかするといまも、アメリカのどこかにいるのかもしれないな」
階下で音がした。母が帰ってきたのだろう。
父は平凡なサラリーマンで、この頃の俺は、両親にイラついていた。
なぜこうも平凡なのだろうと、身勝手な理由で
この頃俺は、周囲がまったく理解してくれないと考えていたが、原因は俺にあったように思う。
なんにせよ、『夢』と同じ道を歩まなくて、本当に良かった。