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010 授業開始と揉め事

 夜、父が帰ってきてから、家族で寿司を食べた。

 一家揃っての団らんは、いいものだ。


『夢』の中で俺は、二十七歳のときに結婚した。

 そろそろ結婚した方がいいだろうと思って……取引先のパーティで知り合った女性と結婚した。


 妻となった女性は大学を出て二年目で、「まだまだ覚えることが多い」と話していたのを覚えている。

 子供はできなかった。夫婦で一緒に食事をしたことも少なかったと思う。


 記憶力には自信がある俺だが、いまとなっては妻の顔もよく思い出せない。

 とことん興味がなかったようだ。


 妻の実家は東京の賃貸マンションだったので、受験前に訪れてみたが、まだ建築が始まっていなかった。

 俺より四歳下なので、いまは小学校六年生のはずだ。


 東京に住んでいることは確かだが、引っ越す前の住所など、聞いたことがない。

 いま思い返すと、至らない夫だったと思う。


『夢』の中の借りを返したいが、おそらく会うことはないのではないかと思う。

 すれ違いの生活が続き、妻の方から離婚をきり出してきた。


 ちょうど欧州に出向する前だったので、離婚を承諾するとか以前に、会社への手続きが増えたが、住居の確保などの手間が減ったなと考えてしまった。


 いま思うと、離婚の話もブラフだったのではなかろうか。

 俺があっさり……というか、離婚後のことをあれこれ話し出したので、「これは駄目だ」と思ったのかもしれない。


 というのも、あのときの妻はなんだか、言いたいことをすべて飲み込んでいる顔をしていた。

 結婚を機に購入したマンションや、見栄のために揃えた車などを慰謝料代わりに与え、離婚は呆気なく成立した。


 身軽になって欧州へ旅立てたと、気分は上向いていたほどだ。

 なんとも嫌なヤツだったと思う。


「おにいちゃん、食べないの?」

 考え事をしていたら、妹が顔を覗き込んできた。


「食べるよ、もちろん」

「たくさん食べないと、大きくなれないぞ。まあ、もう背が伸びないか」


 父が上機嫌だ。そういえば、父は酒が好きだとよく言っていたが、家で晩酌している姿を見たことがない。

 つきあいで飲むことも少ない。


 もしかすると、家計を考えて我慢していたのかもしれない。

「愁一ももう高校生なのね。すぐにいい人を見つけて、結婚するのかしらね」


「えーっ!? おにいちゃんが?」

 妹がまるで「モテないでしょ」という顔を向けてくる。


『夢』の中では、「結婚」という事象だけ捉えて、「相手」については一切考えなかった。

 だれでもいいとさえ思っていたフシがある。


 その点、妹は優秀だ。

 ちゃんと恋愛して結婚している。


 ただし、妹の旦那の顔は見ていない。

 欧州での仕事が忙しく、結婚式は不参加だった。


 どこかの工場の作業員だと聞いて、馬鹿にして終わったと思う。

『夢』の中の俺は、どこに勤めているかだけが重要で、それ以外にまったく興味を持っていなかった。


 兄妹で連絡を取り合うこともなく、最後に連絡がきたのは、父が亡くなったときだ。

 これも北米での仕事が忙しく、「帰ったら墓参りに行く」とだけ伝えて終わった。


 よほど呆れたのだろう。

 それ以来、一切連絡がこなくなった。


 拘置所にいる間も、面会や差し入れもなかった。

 父の死後、母から足が悪くなったと連絡がきた。


 すぐさま俺は、老人ホームに入ればいいと、まとまった金を渡した。

 もしかするとあれも、一度帰ってきてほしいという意思表示だったのかもしれない。


 いまさらだが、反省することしきりだ。

『夢』の中の行動を反省し、今度こそは親孝行しようと思う。あと妹孝行か。


「おにいちゃん、本当に食べないの? もう残り少ないよ」

 横から無邪気な声が聞こえた。そんなに食べたいのか、妹よ。




 学校の授業が始まって、一週間が経った。

 ハッキリ言って退屈だ。


 俺は余暇の使い方がヘタだったが、いまでもそうだ。

 授業といっても、中学校で習った範囲の復習をしている。


 落ちこぼれを出さないというのが学院の教育方針らしく、数学で一次関数をやりはじめたとき、また中学に戻ったのかと、かなり驚いてしまった。


 しかも真剣にノートをとるクラスメイトを見て、さらに驚いた。

 自分だけ異世界に紛れ込んでしまったのかと、本気で心配したほどだ。


「愁一、弁当食おうぜ」

 吉兆院が勝手に俺の前の席に座った。最近馴れ馴れしい。


「おい優馬、他人の席に座るなら、ひと言断ってからにすべきだろ」

「そうだね。えっと、この席はだれのかな」


「横川さんだ」

「あー、席借りるねー」


 窓辺で友達とお弁当を拡げている横川さんに、吉兆院は座ったまま声を張り上げる。

「相変わらず雑だな」


 会社だと、机の周りに大事なものが置いてあったりするので、他人が座ることはない。

 本人に無断で座ることなど皆無だ。


 ある意味、学生らしいといえばそうなのだが、まだこういう感覚には慣れない。

「……ん?」


 あらかた食べ終わった頃に、教室がザワついた。

「もめ事みたいだね」


 廊下でだれかが言い争っている。

「行ってみようよ」


「やめとけ」

 吉兆院が腰を浮かしたので、手で押さえた。


 野次馬根性で眺めるのは失礼だし、関わってもロクなことにならない。

 知らないフリしているのが一番だ。


 食べ終わった弁当をしまい、スペイン語の本を読みはじめたところで、怒声とドンッという音が響いた。

 口論が大きなトラブルに発展したのかもしれない。


 図書室にでも行こうかと思って立ち上がったところ、教室内に残っていた生徒たちが動いた。

「……ん?」


 生徒たちが廊下に出ていく。

 さっきまで騒動を避けていたと思ったのだが、興味でも持ったのだろうか。


 俺が教室を出ると、人垣が割れた。

 そして彼らの視線が……なぜか俺に注がれる。


「大賀くんが来たぞ」

「ついに動いたか」


「そこ、大賀くんのために道をあけろ。通れないじゃないか」

 もめ事をおこしていたのは、クラスメイトと……上級生?


 なぜか人垣が割れて、俺の前に道ができている。

「みんな! この場は愁一に任せよう」


 いつの間にか吉兆院が廊下に出て、場を仕切っていた。

「おい、優馬」


「さっ、先生。やっちゃってください」

 何を?


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