名出さんのおかげで、路地の確認が早く終わった。
お礼に駅前の喫茶店『ドトーリ』で、パンとコーヒーを奢ることにした。
こういうお礼は社会人として当然のことだが、名出さんは「うにゃにゃ」と煮え切らない。
行きたくないのかと思えば、そんなことないようで、勢い余って自動ドアにぶつかりかけていた。
「……注文しないの?」
「先に席を確保しておこう」
手頃な席に名出さんを座らせ、注文をしにカウンターへ向かう。
これまで気にしていなかったが、スターパックスやダリーズが日本に進出してくるのはもっと後の時代だった。
いまはまだ、暗い店内とタバコの臭いのする喫茶店と、ここのようなファミレス型チェーン店の喫茶店がうまく共存している。
その後は、外国からオシャレなカフェ文化が入ってきて、店内だけでなく、外のテラスやテイクアウトで楽しめるようになる。
「どうぞ、名出さん。熱いから気をつけて」
「あ、ありがと」
まずはホットコーヒーだけ。トーストは時間がかかるので、あとで呼ばれたら取りに行く。
店内には、何組かの男女のグループが見える。
この頃の出会いのひとつとして、数人のグループで町に出かけ、同じ数の異性グループに声をかけ、意気投合したら喫茶店で話をするというのが流行っていた。
「へい彼女、お茶しない?」というのはナンパの定番文句だが、それをグループ単位で行っていたのだ。
俺もK高校にいた時代、仲間連中と何度かそういう経験がある。
グループのだれかが大抵、使い捨てカメラ『写ランです』を持っていて、仲良くなったら、それで写真を撮る。
「今度現像して渡すよ」と連絡先を交換したりする。
そんな写真を何枚持ち歩いているかがステータスとなり、俺も嫌々だが、貰ったことがあった。
この写真もくせもので、200枚、300枚と持ち歩いていると逆に痛い人扱いされて、20枚程度をコロコロと変えるのが通らしかった。
交友関係の広さを自慢するため、日々ナンパに精を出している奴らが一定数いたのだ。
「……ナンパか」
「うにゃっ!?」
名出さんが立ち上がって、テーブルが揺れた。
「あっちのグループは、ナンパっぽいなと思って」
「そ、そう……あっ、注文ができたみたい。あたし、取ってくるね」
「ああ、お願いするよ」
名出さんは駆け出すようにカウンターへ向かっていった。
そんなに急がなくても、トーストは逃げないと思うが。
「それで、
一息いれたところで、そう聞かれた。
名出さんの疑問ももっともだ。
聞かれるかもしれないと思っていたので、実は表向きの回答を用意していた。
「模試の申し込みをしようと思ったんだ。不審者を見かけたのは、そのときだな」
「……模試?」
この前、サイレンの時間を確認するためにもらっておいた、模試のパンフレットを見せる。
「模試の内容があまりに簡単すぎて、受けるのは止めたが」
「……簡単」
名出さんは、全国模試と書かれたパンフレットと俺の顔を交互に見ている。
「初めての場所だから、駅周辺を歩いたんだ。そのとき黒いコートを着て、若い女性のあとを付ける人を見かけた。女性のあとを付けるって、かなり怪しいだろ?」
「それはたしかに……怪しいわ」
「黒コートの男は、カラオケボックスから出てきた女性を見ていた。警察に届けようとも思ったが、何かやったわけじゃない」
「まあそうね。町を歩いているだけで通報されちゃ、さすがに可哀想よね」
名出さんの言葉に、俺は頷いた。
もっとあとの時代になると、夜間に女性の
「見たのは俺だけかもしれないからな、不審者を捜しながら、危険箇所を把握しておこうと思ったわけ」
「なるほど、それであんなにあちこち……って、大賀くん。優しいんだね」
「優しい?」
五十年以上生きてきたが、そんなこと言われたのは、初めてだ。
「だって、見ず知らずの人が被害に遭うかもしれないから、行動したんでしょ。あたしだったら、面倒だからしないよ。しても警察にそれっぽい人がいたって話しておわり。わざわざ学校帰りに、町を歩いたりしない」
「もし事件がおきたら、一生後悔するかもしれないだろ」
「一生は後悔したくないけど……でもそれって、大賀くんのせいじゃないよね?」
「それはそうだが……ッ!?」
「大賀くん、どうしたの?」
俺が緊張したのが分かったのか、名出さんが顔を覗き込んでくる。
「いや、なんでも……もう出よう。歩いて疲れたみたいだ」
「そう? そうよね。……じゃ、帰りましょうか」
「ああ……」
俺は店に入ってきた五人組を見ないようにして立ち上がった。
制服からA高校の生徒だと分かる。そして俺が一番会いたくない人物が、その中にいた。
「
ヤツとはじめて出会ったのは、T大のとあるサークルが開催した討論会。
俺はそこで、亜門とディベート合戦を繰り広げて、ボロ負けした。
あまりに盛大に負けたため、人づてにあいつのことを聞いたら、とんでもエピソードがゴロゴロ出てきた。
高校の授業中、あまりに暇だったので、板書を一行ずつ違う言語に訳したとか、インターハイに出場した短距離選手より足が速いとか、テニスは教えられる相手がいないので、プロテニスプレーヤーを自宅に呼んでいるとかだ。
大学時代、科学雑誌に論文を寄稿したこともあったはずだ。
大学卒業までに数十カ国語をマスターしたなんて話もあった。
そんな噂が流れるくらい、アイツは周囲から飛び抜けていた。
真の天才とは、アイツのことを言うのだろう。
俺は絶対に敵わないと思い、なるべく視界に入らないようにして、大学生活を送った。
(それが、こんなところにいるとは……しかももう、
九星会もそうだが、アイツには謎が多すぎる。
『夢』の中で俺は、亜門一族が運営している九星会をネットで調べたことがある。
ただの政治団体だった。
だがその成立は古く、二十世紀初頭にまで遡れるらしい。
T大で亜門に心酔し、卒業後、九星会に入った同級生と飲んだことがある。
ベロベロに酔わせて話を聞いたところ、もうすぐ悲願が達成されると、涙ながらに語っていた。
「二度の失敗、だが三度目こそ……」
「あのときの言葉……九星会の悲願って、一体何だったんだ」
そんなことを考えていたら、いつの間にか家に帰り着いていた。
いつ名出さんと別れたのか、思い出せなかった。