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029 決着のあと

 事件の翌日、つまり五月六日。

「おはよう、名出さん」


「どうして通り魔の前に身をさらすようなことをしたの? わたし、まだ怒ってるんだからね!」

 昨日、救急車のサイレンが鳴り響き、名出さんは俺が怪我をしたのではと、相当心配したという。


 なぜ俺が持ち場を離れたのか、その説明をするために、通り魔のことを話すことになった。

 それなりに端折って説明したのだが、名出さんは心配を通りこして怒る始末。


 こうして、一日経ってもまだ腹を立てているようだ。

 というか、俺の「おはよう」はどこへ行ったのだろう。行方不明だ。


 防刃シャツのことは話していないので、俺の行動が無鉄砲だと思っているようだ。

 犯人が女性だったというのは結果論。とても心配したと言われれば、謝るしかない。


 真摯に謝るのは、社会人として当然のこと。

 だがその最中、遅れて登校してきた神宮司じんぐうじさんが「えっ、なになに? なにがあったの?」と、首を突っ込んできた。


 彼女の場合、しっかりと説明しないと、勝手な妄想を始めそうな気がする。

 というわけで、以前の説明を繰り返したのだが、俺と名出さんが出かけたくだりになると突然、「うにゃああああ!」と奇声があがり、なし崩し的に『英語クラブ』へ入部することになった。


 神宮司さんが「はは~ん」と言いだし、名出さんが「うにゃうにゃ」と言っている間に、丸め込まれてしまったのだ。


「というわけで、今日は活動日なんだから、ちゃんと出てよね」

「分かった……英文でファンレターを書くんだったな」


「そう、もし出したい人がいたら、先生が調べてくれるわよ」

 英語クラブ顧問の早乙女さおとめ先生は、アメリカや欧州に大勢、友人がいるらしい。


 友人に頼んで、ロックスターならば所属事務所、作家ならば出版社の住所を調べてくれるという。


「だったら、ちょっと連絡を取りたい人がいるんだが、頼んでもいいかもしれない」

「へえ……さすが大賀くん。どういう人なの?」


「アメリカ人のジョー・ロジャーっていう経済学者だ。……そういえば彼、いま何やってるんだろ」

 俺が彼について知ったのは、三十歳頃のことだった。


 昔に書かれた『単独経済から総合経済へ』というタイトルの本を読んだのがきっかけだ。

 この時代、その本はまだ日本語に翻訳されていないが、本国ですでに出版されているはずだ。


 1985年に『プラザ合意』がなされて、アメリカのドル安政策が世界的に容認された。

 その流れで日本は、円高へと突入していった。


 今日こんにちの円相場は、プラザ合意から下がりに下がって、1ドル126円だ。

 これがあと数年で、87円の最高値をつける。


 マスコミは円高を歓迎しているが、これがよろしくない。

 このあとすぐ、アジア通貨危機で円が急騰する。


 これがまた運が悪く、消費税増税と時期が一致してしまったため、日本は円高不況へと突入する。


 俺が働いていたころ、よく『失われた10年』と言われたが、その後も経済が回復せず『失われた20年』と言い直されたりした。『失われた30年』と言う人もいる。


 それだけ日本は、不況から抜け出せなくなるのだ。


 この長年に亘る不況の大元はなにか。

 原因のひとつにプラザ合意が挙げられるのではないかと、俺は思っている。


 もちろん経済は生き物であるし、一つや二つの原因で、どうにかなるものではない。

 どうにもならないが、2030年まで生きた俺の記憶より「もう少しだけマシ」な日本にできたらと考えている。


 そのため、ジョー・ロジャーの本を早いうちに翻訳出版できないかと思ったのだ。

 この本が日本で販売されるようになるのは、2009年のリーマンショック以降のこと。


 もっと早く日本で出版されていれば、もしかすると過度な円高が是正されるかもしれない。

 また、企業のグローバル化が進んで、円高になってもメリットを受ける企業が減ってくるのではなかろうか。


 そうなれば、過度な円高は自然とおきなくなってくる。

 俺が大学を卒業するまであと七年。やれることはやっておきたいと思う。


「……というわけで、経済学者のジョー・ロジャー氏とコンタクトを取りたいと思います。どこにいるか分かりますかね?」


 英語クラブに参加して、なぜ俺がロジャー氏を指名したのか、昨今の経済情勢を交えて説明したら、顧問の早乙女先生は目を白黒させていた。




「……クッハハハハ」

 とある屋敷の一室。


 手紙を読んだ老爺ろうや――菱前ひしまえ宗久むねひさは、壮絶そうぜつな笑みを浮かべた。

 ゴールデンウィークを利用して、中国へ視察旅行に行ってきた。


 重工業工場を作るべく、あちこち視察したのだ。

 沿岸部は発展した都市も多く、開発も容易。


 だが、今後も考えれば内陸部がよいのではないか。そう思っていくつかの候補地――重慶じゅうけい市、武漢ぶかん市、太原たいげん市を巡った。


 収穫は思ったほどではなかった。沿岸部に比べて、内陸部のインフラはまだ整っておらず、木造の橋、石炭中心の生活、貧困する人々。

 インフラ分野への投資をしないことには、どうしようもない現状が浮かんでいた。


 計画の見直しが必要だろうか。予算はどうなる?

 そんなことを考えながら帰国したら、これである。


 音もなくふすまが開き、控えていた秘書が顔を出した。

「なにかございましたでしょうか」


「うむ」

 宗久は、秘書の足下に手紙を滑らせた。


 秘書は手紙を手にすると、念入りに読んだ。

「その差出人を調べろ! もっとも、本人かどうかは分からんがな」


「ハッ! ただちに行います」

 封筒を手にし、秘書が去る。


「……ククク、どこで知りおったのか知らんが、ワシを脅すとはいい度胸じゃ。ノコノコやってきたら、後悔させてやろうぞ。何人なんびとたりとも我が一族の悲願、邪魔させてなるものかっ!」


 老人の啖呵たんかに、庭にいた鳥たちが一斉に飛び立った。


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