五月最後の日曜日。
俺はいま、重厚な門扉の前にいる。
表札が大きくて分厚い。
達筆な文字で『
そう、ここはヒシマエ重工の社長である菱前
「思った以上にデカいな」
塀がずっと続いている。
二十三区外とはいえ、これだけ広い敷地を持つ者はそうはいないだろう。
『夢』の中で俺は、偉い人と会って商談を交わしたことが何度もある。
旧家や名門と言われる家柄の人もいれば、一代で財を成した人もいた。
俺はそんな彼らと、対等以上に渡り合ってきた。
いまから会う菱前老人は、そんな中でもとびきりの人物である。
「まあ、なんとかなるだろう」
菱前老人に手紙を出したが、返事はもらっていない。
だが、会ってくれると俺は信じている。
手紙には、いまだ世間に公表していない銀行買収業務について書いたのだ。
その情報をどこで知り得たのか、どこまで知っているのか、興味深々だろう。
俺はインターフォンを押した。
この時代、まだ映像付きのインターフォンは普及しておらず、門扉の上に監視カメラが見える。
――ギギッ
てっきり応答があると思ったが、いきなり門が開いた。
しかも門の内側で待機していたようで、黒のスーツの成人男性が四人も立っていた。
まるで映画のようなシチュエーションだ。
「
「はい、そうです」
少しだけ緊張してきた。
「お待ちしておりました。主人のもとまでご案内させていただきます」
「ありがとうございます。ちなみに主人というのは、菱前宗久様でよろしいでしょうか」
「さようでございます」
ホッと小さく息を吐き出す。どうやら無事、会うことができるらしい。
「それではこちらへどうぞ」
「よろしくお願いします」
前後左右を挟まれて、俺は屋敷の中へと足を踏み入れた。
ここへ来る前、ヒシマエ重工と菱前宗久氏について、できるかぎり調べた。
『夢』の中の知識は、いまより十年後……ヒシマエ重工が力をなくしてからのものがほとんどだ。
ゆえに知識の補完をしてきたのだが、「驚くことに」と言えばいいのか、「さすが」と言えばいいのか。
ヒシマエ重工は、菱前財閥から切り離された一部門とはいえ、かなりの力を有していた。
日本の重工業を支えた企業の一つなのだ。
デカくて当たり前。優秀な社員がひしめき合っていることだろう。
それが最終的には荘和コーポレーションに吸収合併されるのだから、いかにあの巨額銀行詐欺事件が与えたダメージが大きかったのかが分かる。
「こちらでお待ちです」
「ありがとうございます」
渡り廊下で、部屋の方を向いて正座する。
そっと和室の
「はじめまして。手紙を出しました大賀
その場でお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げる。
「入ってきなさい」
「……では、失礼して」
老人の正面でまた正座する。
俺と老人の間には何もない。
和テーブルすらないと、なんだか落ち着かない。
一方の老人は自然体。
俺もなるべくそう映るよう、背筋を伸ばして肩の力を抜いた。
「菱前宗久じゃ。差出人と同じ名……まさか本人だったとはな」
菱前老人が驚いている。
どうしても予定が合わないこともあるだろうと思って、手紙には自分の住所と名前を書いておいた。
返事がこなかったのは、偽名を疑ったからのようだ。
「もちろん本人です。事前に連絡があるかと思ったのですが」
「本気にしておらんかった。勝手に名前を使われた可哀想な少年を脅しても、
脅すつもりなのか。
「そういうことでしたか。
「……ふむ」
菱前老人の雰囲気が変わった。
ちなみにこの「御前」という呼び名は、詐欺事件の報道のさいにテレビで使われたものだ。
社長を退任して相談役になったため、菱前社長と区別するために呼び始めたのだと思う。
現在、菱前老人はまだ現役の社長であり、引退していない。
だが、俺の中ではもう、そのイメージで固まってしまっている。
「先日ですね。都内の喫茶店でくつろいでいましたところ、とある密談を小耳に挟みまして、ぜひともその関係者である御前のお耳にと思った次第です。どうやら
と、最初から爆弾を投下してみた。
途端に圧力が増す。威圧というより、殺気に近い圧だ。
「――どういうことだ、小僧!」
怒声ではない。押し殺した声だが、さすがに腰を浮かしかけた。
『夢』の中では枯れた老人だったが、ここまで覇気を出せるのか。少しだけ感心した。
「お時間があるようでしたら、すべてお話しいたします」
肝が冷えたのを隠しつつそう告げると、菱前老人は二度、手を叩いた。
「残りの予定はすべてキャンセルせよ」
「……かしこまりました」
襖の裏から
秘書だと思うが、護衛も兼ねているのだろう。
「時間はできた……さあ、すべて話してもらうぞ」
菱前老人は首を傾け、やや上目遣いに俺を睨んだ。
すべて吐くまで絶対に逃がさんぞ、という気迫を感じる。
すんなりと会えたし、こっちにも興味を持ってくれた。
……これ、成功と言っていいんだよな?