「……さあ、すべて話してもらうぞ」
この老人がいれば、ヒシマエ重工は安泰だろう。そう思わせる迫力があった。
「もちろんです。そのために来ましたので……それでですね」
「……?」
「(この言葉、聞き取れますか?)」
俺は英語を使った。
「いや、若い頃は
なるほど、菱前老人は1925年生まれの六十五歳だ。
英語排斥運動がおきるのは太平洋戦争の前年、1940年からなので、15歳から戦争が終わるまでおよそ五年間、英語を勉強できなかったことになる。
戦後は復興で忙しかっただろうし、学業を続けられなかったかもしれない。
「そうですか……密談の半分は、英語で行われていました。俺はそれを聞き取ったのです」
「日本人で不自由なく英語を聞き取れる者は、どれくらいいるであろうな。十人に一人もおらんだろう」
「そうですね。俺があの席にいたのは偶然ですが、
「本当か?」
「もちろんです。語学習得が趣味だと思ってください。まさか、近くに座っている少年が、その場の言語をすべて理解しているとは思わなかったのでしょうね。詳しい話を聞けました」
もちろん嘘だが、喫茶店での会話は本当にあったらしい。
あとで捕まったロシア人が、裁判でそう証言していた。
ちょうどこの時期、詐欺の主犯格がサクラ役を用意し、その打ち合わせに喫茶店が使われていたことが分かっている。
この詐欺事件、こういったサクラ役の外国人が多く使われている。
あまりに手が込んでいたことで、詐欺とは思われなかったのだと思う。
「全体の説明は英語か」
「はい。喫茶店にいたのは八人ほどで、そのうち二人はロシア語しか話せないようでした」
「なるほど、英語を母国語に通訳していた者がいたわけだな」
「そうですね。重要なのは、俺がそこで話されていた会話をすべて聞き取れたということです」
「……ふむ」
菱前老人は、
なにか考えているのだろう。俺は続けた。
「聞いているうちに重要な単語がいくつも出てきました。どこに知らせようか悩みましたが、まずは御前にお知らせした方がいいと判断した次第です」
『夢』の中では、この巨額銀行詐欺事件は成功している。
事件は公になり、末端の者は捕まったが、主犯格は逃げおおせた。
金は戻ってきていないし、そもそも詐欺事件は、外国での出来事なのだ。
これによってヒシマエ重工は、金と信用を失うという深刻なダメージを受けた。
「その話、もっと詳しく聞かせてもらえるかな」
「もちろんです。そのために来たのですから」
俺は覚えている限りの流れを語って聞かせることにした。
巨額銀行詐欺事件は、元財閥で銀行を所有していないヒシマエ重工が狙われたことに端を発する。
自前で銀行を持てば信用として最良であるし、資金調達もしやすくなる。
どうやら銀行業への進出は、菱前財閥の悲願でもあったらしい。
菱前商事や菱前不動産ではなく、重工業を営んでいるヒシマエ重工が狙われたのは、バブル期に多くの利益を得たからだろう。
「たとえばですね、仲介業者の『スヴァローグ』ですけど、あれは偽物ですよ。土地と建物は虚偽ですし、接触してきた人も無関係です」
「なんだと? フィリピンに実在する立派な会社だぞ!」
菱前老人の腰が浮きかけた。
「本社……この場合、フィリピンにある『スヴァローグ』ではなく、その大元の会社ですね。そこに確認を取れば分かると思いますけど……確認していないですよね」
「当たり前だ。そもそも本社はドイツであろう」
「本社はドイツの『レギン』です。『スヴァローグ』は『レギン』が100パーセント出資する子会社です」
「そうだ。そして『スヴァローグ』には確認を取ってある。本社ビルで会ったこともあれば、『エイミー銀行』内でも、会合を開いたことがあるのだぞ」
それは知っている。
この事件については、テレビと週刊誌の記者が嬉々として事件を追っていたのだから。
後日、事件の全貌をまとめた本が出版され、俺もそれを読んでいる。
ジャーナリストが取材して出版したドキュメント本だ。
すごい話もあるものだと、俺は何度もそれに目を通した。内容は一通り、頭に入っている。
「結論から申しますと、『スヴァローグ』の上層部とフィリピンの役所はグルです。『スヴァローグ』自体、場所を貸しただけという言い訳が成り立ちます。エイミー銀行もそうですね」
「馬鹿なっ!!」
菱前老人は慌てているが、裁判で本当にそう証言して認められているのだ。
「よく考えてください。商取引をするとき、銀行が行内の一室を貸すことって、よくあるじゃないですか」
「ああ、あるが……だが、銀行買収の話だぞ。それで場所を貸しただけ?」
この時代は当然のことながら、インターネットバンキングなどはない。
土地建物の売買契約で、銀行の一室を使うことがよくあった。
というのも契約書に判を押したあと、その場で振り込みができるからだ。
もちろん、入金の確認もすぐにできる。
「表に出せない話ですから、銀行職員の耳に入らないようにと言われませんでしたか?」
「言われた。だがそれは当たり前だ。とくに途上国ではいつどこで、どんな横やりが入るか分からん。会合するたびに第三者を入れていたら、まとまる話もまとまらんわ」
「まあ、そうですね。横やりについては理解できます」
認可関連を握っている者にその話が届けば、難癖をつけられてずるずると伸ばされる。
ワイロを渡さない限り、一年でも二年でも認可がおりない。
だから、ごく少数で会合を開いたのは間違っていないのだが、それを逆手に取られた感じだ。
「『スヴァローグ』についてはいい。あとで調べる、だが役所がグルだと!? なぜグルなのだ?」
「もちろん、そのこともお話しします」
本に書かれた内容そのままの話になるが。