俺は55歳まで生き、夏の暑い日に倒れ、気がついたら中学三年生まで戻っていた。
西暦2030年から1990年へ、意識だけがタイムスリップした感じだ。
なぜこうなったのか、原因は分からない。ただ確実に、55歳まで生きた記憶が残っている。
その記憶を『夢』として、俺はいまを生きている。
「よし、やるか」
目の前には、紙と鉛筆。
趣味を持たない俺は、2030年までの出来事を思いつくまま書いていくことにする。
これは趣味なのだから、肩肘をはらずに、好きなところから、好きなだけ書けばいいと思っている。
ノルマを課さず、期限を求めず、楽しんで書くのだ。
そうして俺は、真っ白なノートに次々と文字を
「……なるほど、これは前途多難だな」
いまはまだ習作。テーマを決めずにただ、思いついたことだけを書き殴っている。
そして気づいた。
ノートに鉛筆だと、追加や訂正が思ったより面倒くさい。
書いているうちに「あれも付け足したい」「ここはもっと掘り下げたい」と思える箇所がいくつも出てくるのだ。
ワープロソフトならば修正も容易だが、ノートだと書き足しがかなり面倒くさい。
「いくら『たたき台』と言っても、テーマがないからごちゃごちゃし過ぎだな」
時系列にならんでいなければ、テーマもバラバラ。
さすがに方針を定めた方がいいような気がしてきた。
「やはり一番は、もっとも身近だった『経済』についてだな」
ノートの新しいページを開き、俺はタイトル欄に「バブル崩壊」と書き入れた。
1991年にバブルがはじけたと、一般には言われている。
だが業種によって、その受け取り方はバラバラ。
日本全体が一気に不景気になった感じではなかった。
たとえば教育産業。
塾や予備校、参考書や問題集にお金を払うのは、もちろん一般家庭。
会社が不景気だから子供の教育費がすぐに減らされたかと言えば、そうでもない。
借金で首がまわらなくなり、教育にまでお金をかけられなくなった家はあっただろう。
そういう例を除けば、会社の業績が悪くても、給料が現状維持や減額されたとしても、親は子供に教育を受けさせ続けた。
いやむしろ、「自分のようになるな」とより一層、教育に熱を上げた家庭もあっただろう。
おそらく教育産業がバブル崩壊の影響を受けるのは、少なくとも五、六年は後だったはずだ。
逆にもっとも早く、バブル崩壊の影響を受けたのが金融業だ。
バブル崩壊を景気後退と捉えるならば、金融業が最初。
金融業の次は、不動産業や建築業。
投資が一気に冷え込んだことで、仕事がなくなったのだ。
そして怖いことに、当時、この不景気は一過性のものと思われていた。
「結局、景気回復せずに来てしまったが……時代の流れは恐ろしいな」
負の連鎖がおこり、銀行の経営が怪しくなった。
融資先が相次いで不良債権化したことで、不況が長期化してしまった。
銀行の融資審査が厳格化され、設備投資が難しくなったことで、さまざまな業種に影響を与えた。
そして銀行の不良債権処理が一段落しても、日本の景気は回復しなかった。
日本経済は、停滞を続けたのだ。
当然その間に、台頭してきた国が出てきた。
ITの普及もあっただろうが、各国の技術格差が思った以上になくなってしまった。
1990年代の日本を『バブル崩壊期』と名付けるなら、次の10年間は『停滞期』という言葉が相応しいと言える。
だが、世界はどうだろうか。
たしかに1990年代は世界的に不況だった。だが、2000年代は『回復期』と位置づけることができる。
しっかりとリカバリできていたと思う。
そしてやってくる2010年代。これは日本を含めた世界全体で『IT期』が訪れた。
スマートフォンなどの携帯端末の普及が進み、インターネットにおける情報化社会が浸透した時代だ。
情報、商品、サービスなどへのアクセスが容易になって、すべての情報や物がグローバル化してしまった。
「……だからあんなことになったのだろうな」
続いた2020年代は、『信用期』の発展と崩壊だろうか。
そう、発展と崩壊だ。
個人が簡単にビッグデータへアクセスできるようになったことで、それを見極める必要がでてきてしまった。
たとえば掃除機を買う場合、ネットには何十……海外製品や、やや古いものを含めれば何百という選択肢が存在する。
よりよいものを買おうとして調べれば、製品ごとに何十、何百とレビューがあったりする。
さらにブログやSNSなどのソーシャルメディア上にも体験談やランキング、いまお薦めの商品として紹介されている。
情報にアクセスできるがゆえに、情報に溺れてしまうのだ。
本気で検討すれば、部品や性能の一つ一つにまで拘ることができた時代に登場したのが、インフルエンサーと呼ばれる人たち。
新製品の情報をいち早く掴み、要点をまとめあげ、実際に使用し、動画やSNSの読者に分かりやすく解説する。
「あの人が勧めているから、これを買おう」と、商品について深い知識がなくても失敗しない買い物ができるようになった。
しかも、知りたいと思えばいつでも詳しい情報にアクセスできるのだ。
人々は、インフルエンサーの情報を信用するようになった。
これに目をつけたのが企業である。
これまで膨大な広告費を支払い、一方通行な宣伝をかけていたが、インフルエンサーに商品を紹介してもらった方がはるかに効率よく商品をアピールできることに気づいたのだ。
そしてインフルエンサーは細分化されていく。
動画やSNSなどで住み分けができ、専門と呼べる分野を持ち、辛口レビューに徹する者や、使い方を詳しく説明する者、実際に長く使用してからしかレビューしない者など、多岐にわたった。
この『信用期』における商品の流れは一種独特で、長年見向きもされていなかったものがいっきに火が付くこともあれば、満を持して登場させたものがまったく話題にならないこともあった。
すべてはインフルエンサーたちのさじ加減によって左右されていったと言ってよい。
人々は労せず、目的の商品を手に入れることができ、インフルエンサーはそれを発信することで糧を得ていた。ウィンウィンの関係だっただろう。
だが、一部の人々は気づいてしまった。
インフルエンサーの信用すらも買えてしまうことを。
徐々にだが、作られたインフルエンサーが増えてゆき、インフルエンサーそのものへの信頼が揺らいでいった。
2020年代も後半に入ると、人はもう何を信じていいか分からない時代に突入していった。
町の電気屋に赴いて、そこに売られている数台の掃除機の中から予算に合った一台を買った時代を懐かしく思うようになっていったのだ。
2030年当時、「信用は金で買える」というのが一般的な認識になっていた。
もしあの夏の日、俺が倒れなければ、『信用期』のあとにくるものが何なのか、見ることができたかもしれない。
「以上より、人は自分の目で真贋を見極める時代に戻っていったっと……今日はこれでいいか」
俺はノートを閉じた。