六月最初の日曜日。
俺はなぜか、菱前老人の家にいる。
……というか、昨晩電話がかかってきて、呼び出された。
「すまんな」
「いえ……ですが、家の前にハイヤーは止めていただきたく。政治家ではありませんので」
俺にも世間体というものがあるのだ。
たしかに、電話で「迎えに行く」と言われた。
そうしたら今日、黒塗りのハイヤーが玄関脇に止まっていた。
しかも、指定時間の30分前にだ!
リビングのカーテンを開けたら、運転手が羽箒で車についたホコリを払っていた。
窓越しに目が合って、驚いたわ。
中三からやり直して、はじめて驚いたかもしれない。
運転手に聞いたところ、現地に着いて待っているのは常識らしい。
時間になったら呼び鈴を押すつもりだったと。
早めに気づいて良かったと心底思った。
「それでな、今日来てもらったのは他でもない。かの詐欺師たちについてじゃ」
「何か進展でもありましたか?」
「ああ、あったとも。まず社員を現地に向かわせて、信頼できる探偵を雇って調査させた」
「なるほど……それはいい手ですね」
直接乗り込んで騒げば、詐欺集団は行方を眩ませるだろう。
かといって、社員では調査もままならない。
土地勘もないだろうし、途中でバレるかもしれない。
プロを雇ったのは正しい判断だと思う。
「いろいろ分かったぞ。偽の会社、存在していない支店、おぬしの言うとおりじゃった。まんまと騙されておったわけだ」
菱前老人は、膝をパンッと叩いた。
「それはよかったですね。……詐欺が未然に防げたという意味ですが」
「ああ。調査は続けさせるが、あれは詐欺で間違いない。あやうくペテンにかけられるところじゃった。……そこで一つ尋ねたい」
「なんでしょう?」
「お主が喫茶店で聞いたという会話の中に、中国の
「……? いえ、記憶にありませんが」
「そうか。ならば中国、もしくは他の事業でもよい。中国に関連する何かがあれば、思い出してくれんか」
菱前老人は真剣だ。
だが、何かと言われても心当たりはない。
それにヒシマエ重工は、中国に進出していなかったはずだ。
「記憶を探りましたが、中国やそれに類する何かは聞いていないと思います」
俺が答えると、菱前老人は「そうか」と声のトーンを落とした。
中国の温州とは、温州市のことだろう。
温州市は沿岸部に位置していて、『夢』の中では、早期に工場地帯として発展した場所だ。
2000年代になって、たびたび公害のニュースが世界に流れたので、ある程度は覚えている。
「温州市はたしか……軽工業が盛んな場所でしたね」
「ほう……よく知っておるな」
「知っているのはそれくらいです。何か気にかかることでもありましたか?」
「数年前、温州に工場を建築するため、現地の会社と協力して基礎工事をはじめた。だが、ちょっとした出土遺物のせいで、工事がストップしてな」
「ああ……土中から歴史的遺物が出てくると、よくそうなりますね。文化遺産だとか何とか」
「いや、その辺はあまり関係ないらしい。いまの政党に都合の悪い歴史の証拠が出るとマズいようじゃ。漢民族の正当性が失われる証拠だったりすると、かなり問題になる。ゆえに向こうで調べ終わるまで、計画は凍結せざるをえんかった」
「それはまた……共産主義国家ならではですね」
「向こうは、動くのが遅い。最近になってようやく、出土したものも二百年ほど前のものだと分かった。価値はなさそうじゃし、そろそろ工事も再開と思っていたのだが、別方面から横やりが入っての」
「中国政府の横やりですか?」
「いや、政府ではないな。向こうの役人が賄賂で懐柔されておるようじゃ。のらりくらりと躱されて、工事再開できん。ならばいっそ、内陸に工場を建てるかと思い、先日も視察しに向かったのじゃ……まあいい、この話は忘れてくれ」
今回の銀行詐欺事件もそれに関係するのではと思い、俺を呼び出したらしかった。
関係ないと分かり、老人は一応納得した顔をみせた。
帰りのハイヤーは辞退したかったが、沢山の手土産をくれたので、結局乗って帰ることにした。
「お兄ちゃん、おかえり。その両手に持っているのはなに?」
「知り合いからもらったんだ。ほとんどが缶詰だよ」
「へえ……わぁ、カニだよ。偽物じゃないカニだよ。これキャビアって書いてある。すごい。おにいちゃん、どんな友達がいるのよ」
妹の冬美が興奮している。
「いっぱいあるから、台所のテーブルにも並べておいてくれ。置いておけば、母さんが適当に料理するだろ」
「うん」
ソファに座って、テレビのチャンネルを変える。
「……競馬、宝塚記念か。そういえば、馬とかレースとか、一生懸命覚えたな」
K高校時分、漫画やアニメ、ドラマ以外にも競馬や麻雀の話題がよくのぼった。
馬券を買える年齢ではないのに、みな妙に詳しかった。
会話に加わるにはマネしなければならず、九月になってから必死に覚えたものだ。
詳しい知識はもう少しあとになってからなので、この宝塚記念の結果は知らない。
「あれ? お兄ちゃん、競馬見るの?」
「いや、たまたまだ。冬美は詳しいのか?」
「ううん、人気があるってことだけは知ってるかな」
数年前から日本は競馬ブームだ。
二頭の
競馬場は満員御礼。関連グッズもよく売れたという。
還元率の低い
冬美のように、まったく競馬に興味がなくてもブームのことを知っているくらいには盛り上がっていた。
K高校の連中も、おそらくその頃から競馬に興味を持ったのだろう。
俺の場合、今年の秋から数年分は、大きなレースの結果を覚えている程度だ。
この競馬知識は、営業をしているときにも役立った。
得意先に競馬好きな人が何人もいたからだ。
『夢』の中の知識を使えば、大金を稼ぐことが可能だ。
「……くだらんな」
「ん? おにいちゃん、どうしたの?」
「競馬で儲けられそうだと一瞬考えたが、くだらないから止めた」
「おにいちゃんの『くだらない』、久しぶりに聞いたかも」
「そうか……ちなみに冬美は、どの馬が勝つと思う?」
「うーん、一番人気と二番人気が勝つね」
冬美は、ドヤッとした顔で宣言した。冬美にギャンブルは勧めないでおこう。
ファンファーレが鳴り、レースが始まった。
俺と冬美は黙って画面を見つめる。
結果は、一着が二番人気、二着に一番人気の馬が入った。
「やったあ、当たったらお金が戻ってくるんでしょ?」
「
冬美は、「やったぁ、複勝だぁ」と喜んでいた。