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042 菱前老人の懸念

 六月最初の日曜日。

 俺はなぜか、菱前老人の家にいる。


 ……というか、昨晩電話がかかってきて、呼び出された。


「すまんな」

「いえ……ですが、家の前にハイヤーは止めていただきたく。政治家ではありませんので」


 俺にも世間体というものがあるのだ。

 たしかに、電話で「迎えに行く」と言われた。


 そうしたら今日、黒塗りのハイヤーが玄関脇に止まっていた。

 しかも、指定時間の30分前にだ!


 リビングのカーテンを開けたら、運転手が羽箒で車についたホコリを払っていた。

 窓越しに目が合って、驚いたわ。


 中三からやり直して、はじめて驚いたかもしれない。

 運転手に聞いたところ、現地に着いて待っているのは常識らしい。


 時間になったら呼び鈴を押すつもりだったと。

 早めに気づいて良かったと心底思った。


「それでな、今日来てもらったのは他でもない。かの詐欺師たちについてじゃ」

「何か進展でもありましたか?」


「ああ、あったとも。まず社員を現地に向かわせて、信頼できる探偵を雇って調査させた」

「なるほど……それはいい手ですね」


 直接乗り込んで騒げば、詐欺集団は行方を眩ませるだろう。

 かといって、社員では調査もままならない。


 土地勘もないだろうし、途中でバレるかもしれない。

 プロを雇ったのは正しい判断だと思う。


「いろいろ分かったぞ。偽の会社、存在していない支店、おぬしの言うとおりじゃった。まんまと騙されておったわけだ」


 菱前老人は、膝をパンッと叩いた。

「それはよかったですね。……詐欺が未然に防げたという意味ですが」


「ああ。調査は続けさせるが、あれは詐欺で間違いない。あやうくペテンにかけられるところじゃった。……そこで一つ尋ねたい」

「なんでしょう?」


「お主が喫茶店で聞いたという会話の中に、中国の温州おんしゅうの話題は出なかったか?」

「……? いえ、記憶にありませんが」


「そうか。ならば中国、もしくは他の事業でもよい。中国に関連する何かがあれば、思い出してくれんか」

 菱前老人は真剣だ。


 だが、何かと言われても心当たりはない。

 それにヒシマエ重工は、中国に進出していなかったはずだ。


「記憶を探りましたが、中国やそれに類する何かは聞いていないと思います」

 俺が答えると、菱前老人は「そうか」と声のトーンを落とした。


 中国の温州とは、温州市のことだろう。

 温州市は沿岸部に位置していて、『夢』の中では、早期に工場地帯として発展した場所だ。


 2000年代になって、たびたび公害のニュースが世界に流れたので、ある程度は覚えている。

「温州市はたしか……軽工業が盛んな場所でしたね」


「ほう……よく知っておるな」

「知っているのはそれくらいです。何か気にかかることでもありましたか?」


「数年前、温州に工場を建築するため、現地の会社と協力して基礎工事をはじめた。だが、ちょっとした出土遺物のせいで、工事がストップしてな」

「ああ……土中から歴史的遺物が出てくると、よくそうなりますね。文化遺産だとか何とか」


「いや、その辺はあまり関係ないらしい。いまの政党に都合の悪い歴史の証拠が出るとマズいようじゃ。漢民族の正当性が失われる証拠だったりすると、かなり問題になる。ゆえに向こうで調べ終わるまで、計画は凍結せざるをえんかった」


「それはまた……共産主義国家ならではですね」


「向こうは、動くのが遅い。最近になってようやく、出土したものも二百年ほど前のものだと分かった。価値はなさそうじゃし、そろそろ工事も再開と思っていたのだが、別方面から横やりが入っての」


「中国政府の横やりですか?」


「いや、政府ではないな。向こうの役人が賄賂で懐柔されておるようじゃ。のらりくらりと躱されて、工事再開できん。ならばいっそ、内陸に工場を建てるかと思い、先日も視察しに向かったのじゃ……まあいい、この話は忘れてくれ」


 今回の銀行詐欺事件もそれに関係するのではと思い、俺を呼び出したらしかった。

 関係ないと分かり、老人は一応納得した顔をみせた。


 帰りのハイヤーは辞退したかったが、沢山の手土産をくれたので、結局乗って帰ることにした。




「お兄ちゃん、おかえり。その両手に持っているのはなに?」

「知り合いからもらったんだ。ほとんどが缶詰だよ」


「へえ……わぁ、カニだよ。偽物じゃないカニだよ。これキャビアって書いてある。すごい。おにいちゃん、どんな友達がいるのよ」

 妹の冬美が興奮している。


「いっぱいあるから、台所のテーブルにも並べておいてくれ。置いておけば、母さんが適当に料理するだろ」

「うん」


 ソファに座って、テレビのチャンネルを変える。

「……競馬、宝塚記念か。そういえば、馬とかレースとか、一生懸命覚えたな」


 K高校時分、漫画やアニメ、ドラマ以外にも競馬や麻雀の話題がよくのぼった。

 馬券を買える年齢ではないのに、みな妙に詳しかった。


 会話に加わるにはマネしなければならず、九月になってから必死に覚えたものだ。

 詳しい知識はもう少しあとになってからなので、この宝塚記念の結果は知らない。


「あれ? お兄ちゃん、競馬見るの?」

「いや、たまたまだ。冬美は詳しいのか?」


「ううん、人気があるってことだけは知ってるかな」

 数年前から日本は競馬ブームだ。


 二頭の芦毛あしげ馬によるライバル争いがテレビに取り上げられ、大いに盛り上がった。

 競馬場は満員御礼。関連グッズもよく売れたという。


 還元率の低い一口馬主ひとくちばぬしでさえ、どれも抽選になるほどの賑わいだったとか。

 冬美のように、まったく競馬に興味がなくてもブームのことを知っているくらいには盛り上がっていた。


 K高校の連中も、おそらくその頃から競馬に興味を持ったのだろう。

 俺の場合、今年の秋から数年分は、大きなレースの結果を覚えている程度だ。


 この競馬知識は、営業をしているときにも役立った。

 得意先に競馬好きな人が何人もいたからだ。


『夢』の中の知識を使えば、大金を稼ぐことが可能だ。

「……くだらんな」


「ん? おにいちゃん、どうしたの?」

「競馬で儲けられそうだと一瞬考えたが、くだらないから止めた」


「おにいちゃんの『くだらない』、久しぶりに聞いたかも」

「そうか……ちなみに冬美は、どの馬が勝つと思う?」


「うーん、一番人気と二番人気が勝つね」

 冬美は、ドヤッとした顔で宣言した。冬美にギャンブルは勧めないでおこう。


 ファンファーレが鳴り、レースが始まった。

 俺と冬美は黙って画面を見つめる。


 結果は、一着が二番人気、二着に一番人気の馬が入った。

「やったあ、当たったらお金が戻ってくるんでしょ?」


複勝ふくしょうの馬券を買えば当たっていたな」

 冬美は、「やったぁ、複勝だぁ」と喜んでいた。


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