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044 バブル崩壊の話

 吉兆院峰男みねお氏が俺の前に座ると、タイミング良くお茶が運ばれてきた。

 お手伝いさんが丁寧なしぐさで、お茶を置いていく。


 時代が進むと、目の前にペットボトルのお茶をポンッと置かれることが多くなる。

 人を雇うにも金がかかるのは分かる。だが俺は、こうして手で入れてくれた方が好きだ。


「いただきます」

 ゆっくりとお茶をすする。交渉や商談に入る前のわずかな時間。久しぶりに昔を思い出してきた。


 俺は今日、話す内容をいろいろ考えてきた。

 峰男氏が無能な経営者とは思えない。


 俺がリミスの社長に話したことなど、言われなくても時が来れば分かるだろう。

 もしアドバイスできるとしたら、早めに海外展開を勧めるくらいだ。


 このあと日本は、構造的な不況に陥る。だが、海外はその限りではない。

 とくに途上国のGDPは右肩上がりを続ける。


 ゼネコンが生き残る道は海外受注にあると、俺は思っている。

 それから、海外の安い労働力に頼りすぎないことも重要だ。


 外国人労働者の賃金は、これからどんどん上がっていく。

 そして彼らは、仕事を覚えても数年でいなくなる。


 技術を母国に持ち帰るのだ。

 まあ、その辺の話は、いますぐというものでもない。


 それに吉兆院建設の場合、リミスと違って死角はない。

 俺が入札で争っていた頃ですら巨大なゼネコンだったのだ。


 ゆえに当たり障りのない会話から進めようとしたところ……。

「日本経済は鈍化するかもしれんと思っとったところに、リミスの社長から話を聞いてな。おぬしと話をしてみたかったのじゃ」


 俺は目を見張った。

 昨年秋、正確には中学三年の進路面談の日に、俺は『夢』から醒めた。


 あとで調べたらちょうどその日、日本の景気動向指数CIはピークを迎えた。だが、これからの三年間、景気は下降し続ける。

 バブルの崩壊だ。


 地価や住宅価格が下落し、銀行ですら破綻する時代が到来する。

 ゼネコンも例外ではない。


 大規模なリストラを敢行する代わりに銀行から一部債務の免除を受けるなど、冬の時代に突入する。

 長年ともに現場で出ていた社員を左遷させ、自ら辞職するよう、半ば強制せざるを得なくなる。


 そうしないと、国から公的資金を受けられないのだから、企業も本気だ。

 いまは1991年の六月で、バブルの崩壊と言われるのは今年の十二月。


 だが目の前の老人はすでに日本経済の先行きが暗いことを見通していた。

 何を根拠にそう考えたのか……。


「金融引き締めですか?」

「……ほう?」


「利上げですよね。プラザ合意の円高から始まった過剰な投資が、1989年の消費税導入、先年行われた利上げで経済が一気に冷えきっ……」

「ちょっと二人とも、ムズカシすぎるんだけど、何の話?」


 いきなり蚊帳の外におかれた吉兆院がむくれた。

「この前、テーマパークの受注に成功したと言ったじゃろ?」


「言ってたね」

「完成はまだまだ先じゃが、それができる頃には果たして、人々に余暇を楽しむ余裕があるのかと考えての」


「……?」

「おかみは、『お前たちは金を使いすぎだから、財布のヒモを締めよ』と言うてるんじゃよ」


「へえ……なんで?」

「借金して土地やモノを買いまくるから、釘を刺したわけじゃ」


 吉兆院は、あまり分かっていないらしく、首を傾げている。

 1986年から始まったバブル景気はおよそ五年――1991年の末で収束する。


 日本政府による強固な金融引き締め政策によって、経済が一気に冷え込むのだ。

 これまで銀行は、企業が「いらない」と言っても強引にお金を貸した。


 その金で投資、もしくは投機しろというのだ。

 企業はまったく畑違いと認識しながらも、土地やビル、マンションなどを買いあさり、他国の国債を買いまくった。


 だが、政策は一転。

 政府が金利上昇を決定したことで、メガバンクが相次いでそれに追従する。


 何しろ日銀から高い金利を払って資金を融通してもらったのだ。

 自分たちだって同じ事をする。貸し出すときの金利を引き上げた。


 銀行の金利が高くなれば、企業も投資を控えるようになる。

 これまで買いあさっていた不動産価格は一転して下落するようになる。


 つまりこれから、借金してまで買った不動産の価格がスルスルと下がっていく。

 だったら高いうちに売ってしまえばいいと思うだろう。


 売ろうにも買い手がいない。

 もしくは、残った借金より安い価格でしか売れなくなってしまう。


 こうして日本中に不良債権が積み上がっていく。

 それがこれからやってくるのだ。


「政府も思い切りが良すぎますね」

 タイミングが悪かったといえばそうだが、悪いことが重なり過ぎた。


 このときの後遺症か、このあと日本政府は、何十年にもわたって利上げを躊躇うようになる。

 そのため、延々とデフレが続くのだが……。


「そうじゃな……まったく、九星会きゅうせいかいにも困ったものだ」

「えっ!?」


 いま、何と言った?


「ん? 自由党じゆうとう大勝に貢献した団体がおってな。……まあ、世間では知られておらんが、現政権には、それの意向が反映されているのじゃよ」


 九星会は、亜門あもん清秋せいしゅうの……あの団体のことを『夢』で調べたときは、ただの政治団体と出ていた。


 T大卒業後、亜門は官僚になったため、俺は接点を持たなかった。

 考えてみれば、官僚は政治家を動かす。


 とくに初当選した議員などは、官僚との『勉強会』で政治の仕組みを学ぶとさえ言われている。

 大臣ですら、官僚の用意した文章を国会で読み上げるほどだ。


 決定権や認可権を持つ大臣は当然偉いが、そんな彼らを動かす存在こそが官僚なのだ。

 政治家が官僚と喧嘩したら、官僚に任せていた仕事を全部自分でしなければならなくなる。


 それが分かっているから政治家は、官僚と持ちつ持たれつの関係を続けていく。

「九星会が消費税導入や、利上げを推進したんですか?」


「噂では……な。真実は永田町ながたちょうの中にあるから、儂にも分からん」

「そうですか……」


 亜門一族の支配する九星会が「失われた十年」と言われるあの時代を引き起こした張本人の可能性があるようだ。

 なぜか背筋がブルッと震えた。


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