「また会えるよね。電話するからね!」
華さんは駅で切符を買い、今生の別れのような顔で去っていった。
この時代はまだ電子マネーが導入されておらず、自動改札口にはなっているものの、いちいち路線図を見て、目的地までの料金を確認して切符を買わねばならない。
華さんを駅まで送った帰り道、俺の横に高級車が横付けされた。
音もなく後部座席の窓が開き、菱前老人が顔を覗かせた。
「乗っていかんか?」
「知らない人の車には乗るなと言われてますので」
老人は
埋め合わせなどはいらないのだが、あの詐欺事件が気になっていたので、俺は車に乗り込むことにした。
「センチュリーですか。似合ってますね」
鎌倉の御前とか言われても遜色ない。
「国産車はええぞ。社長と知り合いでな。安く譲ってもらった」
「安くって……金持ちは、市場にお金をどんどんと流してください」
「なに、金持ちはみな
「金持ちが肩をすくめてどうするんですか。労働者にそっぽを向かれますよ」
「……アイン・ランドか」
「ええ、成功者は自分の周囲だけでなく、世界を支えてください」
アイン・ランドの小説に『肩をすくめるアトラス』というのがある。出版は古くて1957年。
日本語にも翻訳されているが、俺は原書で読んだ。もちろん『夢』の中でだ。
金持ちのところには自動的に金が集まる。
だから率先して使うべきだと俺は言いたかったのだが、どうやらちゃんと老人に伝わったようだ。
ちなみにこの本では、天を支える巨人アトラスを資産家階級に見立てている。
資産家つまり金持ちは、労働者をその背に支えているのだ。
労働者は資産家のために働き、資産家は彼らの生活を守っている。
アトラスが支えれば支えるほど、その両肩に多くの労働者が重くのしかかってくる。
これは資産家が世界を支える役目を負わされているという風刺だが、アメリカ的な資本主義的支配構造体系がよく分かるようになっている。
アメリカの成功者の家を訪れると、決まってこの本が書棚に並んでいた。
自由主義、利己主義を肯定した本というだけでなく、ブルジョアジーがプロレタリアートを支配する正当性を与えているからだと俺は考えている。
つまり金持ちの自己正当化のための本だが、菱前老人もまた、読んだことがあるようだ。
「この老骨には、あれは少々骨が折れるの」
「イギリスでは、アメリカの
「さもありなん。イギリス文学とは、相性が悪かろう」
「シェイクスピアの戯曲だと、大抵権力者が最後には失脚しますからね。そういえば、ジョージ・オーウェルの『動物農場』はそれより前の1940年代に発表されたと記憶していますが……」
『動物農場』は動物が知恵を持ち、農場から人間を追い出し、自分たちだけの共和国を作る物語だ。
搾取からの解放物語かと思って読み進めていたら、動物たちが人間を追い出したあと、豚が権力を握り、独裁者となり恐怖政治を敷いていく話に転がっていった。
知らずに読んで、驚いた記憶がある。
最初は少しだけよい餌を主張していた豚が、短い間でどんどんと欲深くなっていくのだ。
次第に豚と他の動物との差異が広がり、寿命の短い動物たちが死んで代替わりしていった結果、驚きの結末がまっていた。
豚たちは二足歩行し、人間のように服を着て、人間たちと何ら変わらない存在となっていったのである。
「うむ、あれは風刺が効いていたのう。『1984』も良いが、あれも良い」
老人が手を叩いて喜んでいる。
そんな話をしていたら、車はとある店の前で止まった。
達筆な毛筆体で『日本料理しんや』と書かれた看板が目に入った。
「また高そうな店ですね」
「金持ちは、金を市場に流さねばならんからのう」
「そう言われてしまえば、何も言えないですね。では俺も存分に貢献しましょう」
「そうしてくれ」
俺たちはのれんを潜って、店の中に入っていった。
店に入ると大きなカウンターが目に付いた。
板前らしき人が、菱前老人に向かって頭を下げる。知り合いのようだ。
「よく来るのですか?」
「出資している店のひとつじゃ」
「なるほど……とても
「そうじゃろ?」
菱前老人は上機嫌だ。
カウンターに座るとすぐにおしぼりとお茶が出てきた。
「適当に頼む」
その一言で通じるらしい。
菱前老人は日本酒を飲んでいる。
俺に勧めてきたが、もちろん断った。だから何歳だと思っているんだ。
突き出しの小鉢を箸で突いていると、「
「もしかして俺のこと、見張ってました?」
刑事ドラマでよくある張り込みだ。
「そなたの言葉がズバズバと当たるのでな。話以上に深入りしているのかと思って、身辺に人をやったところだった」
数日前から学校の登下校の時間帯と日曜日の日中は、警護の意味を込めて家の周囲に人を置いていたらしい。
学校が週休二日制になるのは来年からだ。
いまはまだ、土曜日まで授業がある。登下校と日曜日だけとはいえ、ずっと見張るのは、大変な労力だ。
「家の周囲に人がいたのですか、それは気づきませんでした」
「普段はワシの身辺を警護している有能な連中じゃぞ。プロに頼んでも良かったが、荒事には不向きかと思ってな」
「そこまで……考えすぎじゃないですか?」
「今日は、調べて分かったこととの追加だな。相手は思った以上に大きいようじゃ」
先日、俺が菱前老人の家に呼ばれて話を聞いたときは、話の裏が取れただけだった。
それから進展があったのだろう。
「簡単に尻尾を掴ませたのですか?」
「こっちが気づいていないと思っていれば、口も軽くなるというものよ」
「金を渡したのですか?」
老人は首を横に振った。
「大金を渡して、話を聞いた」
どうやら、金の使い方は心得ているようだった。