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054 入院

 目の前で何度も光が瞬き、その都度、見たこともない映像が断片的に映し出されていく。

 菱前老人が慌てたのが分かった。だが、どうしようもない。


 身体がグラリと揺れ、手を突こうとしたものの、身体が自分の意思では動いてくれなかった。

「大丈夫か!?」


「ええ……身体は動きませんが、意識は……あります」

 目がチカチカしていて、老人の顔をまともにみることができない。


「いま、救急車を呼んだ」

「おかまい……なく」


 強がってみたものの、身体を動かすのはとても億劫だ。

 時間の感覚が曖昧になり、いつのまにか救急車が到着していた。


 救急隊員としっかり受け答えしているはずだが「意識混濁」と報告されている。

 いつの間にか、救急車に乗せられていた。


 時間が跳び、病院のベッドにいた。

 隣にいるのは、老人の秘書。


「ご迷惑をおかけしました」

「いえ、貧血という診断でした。血圧が下がっていたと」


「なるほど、低血圧ですね。……でしたら、起立性低血圧ということにしておきましょう」

 秘書はすぐに察したようで、「そのように伝えます」と静かに頭を下げた。


 しっかりと起きていたつもりだが、すでに診断が終わっていたとは驚きだ。

 だがこれで、菱前老人と口裏合わせができた。


 変な病気で倒れたわけではないし、ここはひとつ「立ちくらみ」で押し切ってしまおう。


 医師は分かりやすく「貧血」と説明したのだと思うが、正しくは「低血圧」だ。

 貧血は、赤血球の数やその中に含まれるヘモグロビンが減少していることを指す。


 献血で「血が薄いので無理です」と断られた場合、この「貧血」である場合が多い。

 一方、「低血圧」は、心臓から送り出す血液の量が不足しているときにおこる。


 起立性低血圧、つまり立ちくらみは、急に立ち上がったとき、満足に脳へ血液を運ぶことができなくなったことでおこる。

 ちなみに倒れる直前、「目の前が真っ暗」になった場合は低血圧で、「目の前が真っ白」になった場合は高血圧だと言われていたが、両方とも低血圧で、違いはないらしい。




 病院のベッドで横になっていると、看護婦が「ご家族の方がいらっしゃいました」と告げてきた。

「入ってもらってください」


 老人の計らいで、看護婦付きの一人用個室に入れてもらっている。

 というか、気がついたらここにいた。


「お兄ちゃん、倒れたんだって?」

 妹の冬美が病室に入ってきた。


「大賀くーん!」

 なぜか名出さんもいる。というか、名出さんが目に涙を浮かべている。


「名出さん、何も泣かなくても……」

「大賀くん、あのね、カステラの飼い主が見つかったっていうの」


「ん?」

「どうしよう。わたし、悲しくて」


「帰ってくれるかな」

 面倒な問題を持ち込まないでほしい。あと紛らわしい。


 二人はナースセンターで俺の容態を聞いていたらしく、二人ともあまり心配してくれていなかった。

 どちらかというと、よそ様に迷惑をかけたことを心配していた。


「見識を深めるため、経済についてのアドバイスをもらっていた」

 なぜ俺が救急車で運ばれたのか。いろいろ端折って、そう説明した。


「通り魔の件もそうだけど、大賀くんって、無鉄砲よね」

 考えなしの代表者である名出さんから、そんなことを言われた。


 さすがに言い返したいが、ベッドの上では説得力がない。俺は話題を変えた。

「それで名出さんは、どうして冬美と一緒に?」


「えっ? だから、カステラのことを相談しようと電話したら倒れたって聞いて、一緒に来たの」

「なるほど、どうして一緒に来たかよく分からないが、よく分かった。それで相談というのは?」


「もちろん、カステラを手放さないで済む方「あきらめろ」」

 名出さんは「ひどーい」と憤慨するが、飼い主のところへ戻すのは、拾った者の義務だ。


「それでお兄ちゃんは、このあとどうするの?」

「今日一日、ここで様子を見るそうだ。明日、退院する」


「そっか。じゃ、大丈夫みたいだし、一旦帰るね」

 冬美は、秘書に「兄をよろしくお願いします」と頭を下げて出ていった。よくできた妹だと思う。


 名出さんは「何か名案を」とか言っていたので、強制退去させた。

 秘書が「二人を自宅まで送ります」と言って出ていった。




 一人になったので、いろいろ考えてみる。

 フラッシュバックしたあれは、俺が見聞きした内容で間違いないだろう。


 完全に忘れていたのは問題だが、重要なヒントがあの映像の中にあった。

「日本に戻ったら……ということは海外だ。だとすれば、欧州か中東、そして米国」


 時期的に米国がもっとも可能性が高い。そして日本に帰る直前の記憶が、俺にはない。

 以前は気にしなかったが、もう少し真剣に思い出してみる。


「俺はどこから日本に戻った?」

 まったく思い出せない。驚くことに、記憶が完全に欠落している。だが……何か覚えているはずだ。


「……そうだ!」

 日本に戻ってすぐ、俺は背任容疑で捕まり、取り調べを受けた。


 そして裁判が始まり、公判で読み上げた内容で……検察は「ラスベガスから日本行きの飛行機に搭乗したことを確認したため、帰国しだい逮捕に踏み切った」と言っていた。


 つまり俺は、帰国直前、ラスベガスにいたことになる。

 ……なぜ?


 フラッシュバックの映像が断片的だが、俺はだれかと会話している。

 何もない無機質な空間だった。手がかりはない。


 それと、洞窟のようなところを歩いていた。

 他には……?


「誰かを追っていた……」

 そう、俺は誰かを追って、そこへ足を踏み入れてたのだと思う。


 俺は一体だれを追っていた?

 会社の上司か? 上司が怪しいことをしていて、跡をつけた?


「いや、俺が捕まるまで、そんな兆候は一切なかった」

 あれは寝耳に水の逮捕だった。


 何かの間違いだと真っ先に思ったほどだ。

 米国にいたときに、上司を疑ったことは一度もなかった。


 では誰を追っていた?

 かなり距離をおいて追っても、見失わない程度には知っている相手のはずだ。


 同僚? 部下? それとも会社とは関係ない人物か?

 そもそも、知り合いを見かけたからと言って、跡をつけるのか?


 よほど怪しい人物ならば別だが、普通は跡をつけたりしな……いや、もしそこに本来いるべきでない人物ならば、可能性がある。

 たとえば日本にいるはずの人物。俺が怪しいと睨むような……。


「……亜門清秋?」

 俺が唯一、敵わない、足下にも及ばないと思った人物。


 もし亜門があの場にいたら、どこかへ向かったら、俺はどうするだろう?

「跡を……つける気がする」


 こちらが一方的に劣等感を抱いているだけだが、それはどうでもいい。

 俺は亜門がそこにいたら、平静ではいられない。跡をつけて、何をしているか、突き止めると思う。


「ということはまさか……」

 亜門……いや、九星会が関係しているのか?


『夢』の中ではほとんど関わりのなかった九星会。

 もし俺が亜門に執着するあまり、知らずに九星会の本質に迫ってしまったら?


「分からない」

 記憶がないことが、これほど恐ろしいとは思わなかった。


 俺は、ラスベガスで一体誰に会い、何を見て、そのことをなぜ忘れたのだ?


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