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056 登校

 翌朝、教室に入ると、クラスメイトの視線が生温かい。

 春の日差しのような目で俺を見てくる。たった一日休んだだけで、何があった?


「おはよう、今日は良い天気だね」

「今日は曇りだぞ、吉兆院。目でも曇ったか?」


「そうだっけ? ……そういえばさ、立ちくらみで入院したんだって? 名出さんから聞いたよ」

 吉兆院がとんでもないことを言いだした。


 いまの話は、真実とはかけ離れている。

 ただ、いろいろなものを端折はしょって事実を矮小化すれば……立ちくらみで入院になるのか?


「それで今朝から、様子がおかしいのだな」

「クラスのみんなもさ、愁一にも人間らしいところがあったんだって」


「おい、吉兆院。それはどういうことだ」

「だってさ、いつもとりつく島がないじゃん。だいたいそっけない返事しかしないし。だからロボットじゃないかって、あ痛っ!」


 俺は吉兆院の額を小突いた。

 この時代、ロボットといえば、アニメに登場する猫型か、巨大ロボだろう。


 次に思い浮かべるのが、マイコン制御で決まった受け答えしかできない子供のおもちゃだ。

 吉兆院が高性能AIを積んだものを想像していない限り、俺をそのおもちゃだと評していることになる。


「なるほど、俺のことをロボットだと思っていたわけだ」

「だって、喋る車のあれ……ナ○ト2000だっけ? あれより人間っぽくないし、痛いよ、そこ痛い!」


 80年代に製作された米国のドラマを持ち出して、吉兆院は俺をディスってきた。

 親指を握って決めてやったら、大人しくなったので、しばらくこうしていよう。


「……ったく、俺だって体調の悪いときだってある。倒れるくらいするだろ」

 本当にこのクラスは、俺のことをどう思っているんだか。


 俺と吉兆院のやりとりを近くで聞いていた神宮司さんが、「私は騙されないわよ」と呟いていた。

 いつも思うが、彼女は俺に恨みでもあるのか?


「みなさん、おはようございます。今日は全員揃っていますね。大賀くんが鬼の霍乱と聞いたけど、今日は大丈夫なようですね」

 なぜ担任まで俺をディスる?


 俺はよほどイライラしていたのか、返事の代わりに指先で机をトントンした。

 なぜか教室中が静かになった。




 昼休み、名出さんから犬の話を聞いた。

「おじいさんの足が悪くて、引き取りに来られないんだって。だからカステラは、渡さなくても大丈夫だよね?」


「駄目に決まっているだろ」

 話を聞いておいてよかった。名出さんの場合、本気で知らんぷりしかねない。


 なぜ犬が迷子になっていたかと言うと、おじいさんの息子夫婦がこっちへ連れてきた犬だったらしい。

 息子と言っても、すでに高齢でその子供たちもみな独立済み。つまりおじいさんは、相当な歳だと思われる。


 おじいさんの家の庭には芝生が植わっており、足腰が悪くて手入れができずにいたら、近所の農家から苦情が入ったそうな。


 伸びた芝生など、虫の温床だから仕方ない。

 息子夫婦が芝刈りと薬剤散布に犬を連れてやってきたそうだが、その帰り道、トランクに荷物を全部積んだか確認するため、車を降りたときに逃げ出してしまったらしい。


「なるほど、おじいさんは足が悪く、息子夫婦は遠くに住んでいたから、発見が遅れたのか」

「警察から電話がかかってきたから、お父さんがまた何かやったのかって怒るし、もうさんざんだよ」


「また何かやったのか」

「やってないわよ、もう!」


 息子夫婦も一応、ずっと探していたらしい。

 保健所に見に行ったが、それらしい犬はいなかった。


 ダメ元で警察に行ったら拾得届が出ていたので、警察が連絡することになったようだ。

 おじいさんの家に証拠となる犬の写真を送るので、同じ犬なら返してほしいということらしい。


「ならば早いほうがいいだろう。今度の休みに行くか」

「いや、どうかな~? まだ大丈夫だと思うよ」


「次の日曜日な。それで連絡しておくんだぞ」

 名出さんの瞳は明後日の方を向いていた。


 あとで父親に電話しておこう。




 家に帰るとクラス会のお知らせが届いていた。ハガキ一枚の簡素なものだ。

 これは『夢』でもあった。


 俺は「くだらない」とそのままゴミ箱に捨てたが、今回はどうするか。

 連絡先には、クラス委員だった男女二人の名前がある。


 参加する人は、このどちらかに電話すればいい。丁寧にも、連絡可能時間帯まで書かれている。

「……いまさらだな」


 あの進路面談の日から卒業までの間、以前よりはクラスメイトとうち解けたと思うが、それだけだ。

 親しい者もいないし、俺が参加しても迷惑だろう。


 俺はハガキを机の引き出しにしまった。


「……それでなぜ、電話をかけてくるんだ?」

 夜になって、クラス委員だった油野あぶらの昌一まさかずから電話がかかってきた。


『ハガキ届いただろ? もう何人か参加の連絡が来たからさ』

「ああ、届いたよ。それで?」


『大賀のことだから、こっちから誘わないと、絶対に参加しなさそうだったからさ』

「……? たしかに欠席するつもりだったが、それでなぜ、電話をかけてくる?」


 これは『夢』ではなかったことだ。俺はクラス会を欠席したし、だれからも電話はかかってこなかった。

『それは俺のエゴみたいなものかな。母ちゃん、助けてもらったし』


労災ろうさいの件か。あれは労働者の権利だ。パートだろうと正社員だろうと、職務中の怪我は補償されてしかるべきだ」

『そんなの俺も母ちゃんも知らなかったしさ、スーパーの方も理解してくれて、あれからかなり働きやすくなったんだぜ』


 油野の母親がパート勤務中にアキレス腱を断裂する大怪我を負った。

 どうもスーパーの裏方は重労働らしい。


 自身の体重すら足にかけられない状態のため、パートは休み。

 収入がなくなったと、油野が教室で嘆いていたのだ。


 それを聞いた俺は、労災をちゃんともらったのかとか、休業手当は受けられるのだぞと、『夢』の中の知識をそのまま語ってしまった。

 あのとき、気分はまだエリートサラリーマンだったのだ。


 結局、スーパーの方もそういうことはあまり把握しておらず、対応を協議した結果、双方納得できる形に落ち着いたと聞いた。

 というか、油野が勝手に話してきた。


 もともとスーパーとは名ばかりで、個人商店よりはマシというものだったらしく、従業員もお客も地元の人しかいない。

 今後のこともあるからと、店主も熱心に勉強をはじめたようだ。


『そういうわけでさ、大賀にはぜひ来てもらいたいんだよ、どうかな?』

「……そう言われたら行くしかないだろ」


 営業マンは相手から断られない限り、顔を出すのが鉄則だ。

『そうか、来てくれるか。じゃ、当日、待ってるからな』


 そう言って油野は電話を切った。声が少し明るかったと思う。

 俺ははじめて、バタフライ効果を実感した気がした。


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