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057 カステラとともに

 翌日の放課後、俺は名出さんと一緒に……いや、嫌がる名出さんを引っ張って、東京の町田市に来た。

「嫌だぁ~、カステラはもう家族なの」


 名出さんがうるさい。

「いまから本当の家族のもとへ返しに行くんだよ」


 出かける前、警察から教えてもらった電話番号にかけた。

 老人は柴崎しばざきと名乗り、家は町田市にあるため、迷わないよう、駅から家までの道のりを丁寧に教えてくれた。


 小田急線を使うということで、登戸のぼりとから乗り換えた。

 当のカステラ……迷子犬は、キャリーバッグの中で大人しくしている。


 町田市は東京都の飛び地として有名だが、実際に足を運んだことはなかった。

 小田急線の駅から離れると、住宅よりも畑が目立ち、思ったよりものどかな風景に驚いた。


 しばらく歩くと、目的の家が見えてきた。

「……ここだな」


 電話したとき、自分から引き取りに行けないことをしきりに恐縮していたが、家の中で電話に出るのも億劫そうだったので、心配無用と伝えておいた。

「ようこそ、いらっしゃいました」


 インターフォンを押すと、八十歳くらいの老人が出てきた。

「はじめまして、大賀愁一と言います。彼女がこの犬を拾った名出琴衣です」


 名出さんの後頭部を押さえて会釈させると、老人は破顔して言った。

「ほんに、ありがたいことです。ここじゃ、何ですから中へどうぞ」


 居間には掘りこたつがあり、布団はかかっていなかった。

 まず、この迷子犬が本当に息子夫婦のものかどうか、確認しなければならない。


「息子が送ってきた写真ですじゃ」

「拝見します」


 封筒の中には十枚ほどの写真。

 たしかに名出さんが保護した犬と同じに見える。


「確認しました。この犬で間違いないようですので、お返しします」

 名出さんはぶすーっとしているが、文句を言うことはなかった。


「子供たち――ワシにとっては孫だが、それがみな独立してしまって、寂しいようでのう」

 息子夫婦は埼玉県の所沢市に家を買って住んでいるらしく、ちょうど多摩川を渡る是政これまさ橋を過ぎたあたりで、忘れ物が心配になったらしい。


 しばらく走って、ガソリンを入れるついでにトランクを確認しようと夫婦そろって車を降りたときに逃げ出したとか。

「犬は一度走り出すと、なかなか止まりませんからね」


「移動用のケージは小さくてのう。長時間は可哀想だと、車の中で好きにさせておいたのがいけなかったのじゃ」

 なるほどと、思う。ときどき半開きの窓から外を眺めている犬を見かけるが、あれは危険だと思う。


 大型犬だと、そもそもケージを車内に持ち込むことは不可能だろうが、せめて窓だけは閉めておいてほしい。

 老人の家の中は、物が多いものの、綺麗に整頓されていた。


 部屋を眺めていると、大きな写真が目に入った。

 写真は賞状と一緒に、鴨居かもいのところに飾られている。


「あれは、昔の写真ですか? ずいぶんと高いところで撮ったようですけど」

「ああ、あれは仕事で……アメリカのロサンジェルスだったな。第一次大戦が終わってからアメリカはずっと好景気でのう。いくらでも建築需要があって、そのときのものじゃ」


「ということは、建築会社にお勤めだったのですか?」

 老人は首を横に振った。


「ワシらは日雇いだな。人が足らんつぅて、あちこちの現場に行かされてのう。ついにはアメリカくんだりまで行くはめになったわ。なんでも建築技術を学ばせてもらうかわりに、格安で人を配置させたかったようじゃ。いい勉強させてもらったよ」


 飾られているのは、白黒の集合写真。高層ビルのてっぺんで撮ったようだ。

 この頃だと、あまり労働者の権利もしっかりと守られていなかっただろう。


 工事現場でよく見かける『安全第一』という標語があるが、あれの正式な文言は『安全第一・品質第二・生産第三』だ。

 アメリカで産まれた言葉だが、昔は『生産第一・品質第二・安全第三』だったらしい。


 いかにもアメリカらしい言葉だが、生産性を優先するあまり労災が多発したことを受けて、いまの形に変えたそうだ。

 高所の現場でも、命綱なしに作業していたのだから、突風一つで命が失われたことだろう。


「私なら怖くて、あんな高い現場では働けませんね」


「ワシらも同じじゃ。みんな下を見ずに作業してたな。あの写真を撮ったのは1935年で、ワシが二十五歳のときじゃ。そのあとすぐ、第二次大戦がはじまってのう。結局、引き上げざるをえんかった」


「ああ、なるほど。日本の会社の人も、そのときに引き上げた感じですか」

「そうだったと思う。もともとあっちに進出するつもりがあったのかも疑問じゃな。社員が必死に高層建築の資料を集めておったのはよく覚えておるわ」


 第二次大戦が始まる前、日本国内に高層建築はほとんどなかったと思う。

 ノウハウを持っている会社は皆無だったはずだ。


 イチから勉強するのではなく、アメリカの建築会社に人を派遣して、その見返りに技術を提供してもらったのだろう。

 なかなかいい手だと思う。もっとも、そのもくろみも、第二次大戦で崩れたようだが。


「戦争は多くの人の運命を狂わせますね」

「ああ、もし戦争がなかったら、荘和そうわももっとデカくなっていたんじゃろうなぁ」


 老人がしみじみと言うが、いま聞き逃せないワードが出てきた。

「荘和というのは、荘和コーポレーションのことですか?」


「んーっと、昔は荘和建設と言ってたか、それと同じかもしれん。あれが人を集めて、海外へワシらを送ったのよ」

「…………」


 俺は呆然と写真を眺めた。

 荘和コーポレーションはその昔、荘和建設と言っていた。


 俺が入社する頃には社名を替えていたが、その頃でもまだ一度も、海外に支社を持っていなかった。

 現地の協力を経て何かをすることはあったが、その程度だ。


 俺が欧州に出向になったのも、欧州支社ができて五年目のはず。

 まさか、過去に海外進出を想定して、人を送っていたことがあったなんて、俺は知らなかった。


 社史を読んだことがあるが、そのことは載っていなかったと思う。

 老人の話が本当ならば、社員を数人派遣しただけなので、会社の歴史として記す必要もないのかもしれないが。


「ほんに、戦争は何もかも狂わせるのう」

 老人の独白がいつまでも、俺の耳に残った。


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