「ほんに、戦争は何もかも狂わせるのう」
俺の両親ですら、戦後生まれだ。
いまはもう、戦争を知らない世代が社会や経済を回している。
日本は、戦後の焼け野原から奇跡的な復興を成し遂げた。
高度経済成長は、目の前の老人たちが礎を築き、俺の親世代がそれを引き継いだ。
両親や祖父母たちが歯を食いしばって前に進んだおかげで、いまの社会がある。
恩恵に与ってばかりの俺たちが、戦争について何かを語れるものでもない。
俺は黙って、老人の独白を聞いていた。
「ワシらに帰国命令が出た。だが、荘和も金がなくてのう。毎年何人かという話じゃった。しかし、戦争が激化してそうも言っていられなくなった……」
1939年からはじまったとされる第二次世界大戦だが、米国が参戦したのは1941年の12 月だった。
それまでアメリカは日本に対して経済制裁を続け、なんとか参戦する名目を探していた。
日米の関係は険悪になり、いつ戦争がはじまってもおかしくない状況だったが、決定的な破局までは至っていなかった。
ただ、日本からの和平交渉に、アメリカは妥協することなく強硬な姿勢をとり続け、結局破局している。
この辺はアメリカの思惑通りだったと思う。
その頃アメリカ国内では、プロパガンダを通して日本の軍国主義を批判し、国民の愛国心や反日感情を刺激するポスターやマンガなどが多数作られていた。
世論が一丸となって日本憎しの感情を高ぶらせている国に残った人々は、大変だったと思う。
荘和建設も、早く帰国させたかったのだろうが、戦時下で本当に金がなかったのだろう。
「それでは、最終的に日本に戻れなかった人もいたのではないですか?」
老人はゆっくりと頷いた。
「若い者は未来がある。帰ってお国のために働けと言われてな、数少ない切符を渡してくれたんじゃ」
当時、帰国するならば船だろう。その切符を老人は譲り受けたようだ。
「では戻れなかった人たちは……?」
「市民権を持っていなかったからのう。苦労しながら生活して、日本からの便りを待っていたようじゃが、結局全員強制収容所送りとなった」
第二次大戦当時、米国は、日本人や日系アメリカ人を強制的に集めた。
砂漠の中などにバラック小屋を建てて、そこに住めというのだ。
周囲をフェンスで囲んで、常時兵士が銃を構えて、脱走しようとすれば射殺される環境だった。
強制収容で自宅や財産を失った者は、十二万人以上と言われる。
老人の仕事仲間も、その中に入ってしまったのだろう。
この収容所暮らしは戦争が終わってもしばらく、1949年まで続いたという。
老人は、震える足で立ち上がり、写真の中の人物を一人一人指さした。
「これと、これと……こいつも、戻ってこられんかった。それっきり連絡はつかなんだなぁ。まだ生きているのかすらも分からん」
震える足のせいで、老人の指はどこを指しているか分からなかった。
ふと『二十四の瞳』の最後のシーンが思い浮かんだ。
老人には、当時の仲間の姿がいまでも見えているのだろう。
「今日は貴重な話をありがとうございました」
「いやいや、老人の繰り言を聞かせてしまったわ」
戦争の体験談は貴重だ。
なぜならこのような話は、このあと急速に失われていく。歴史の生き証人が、みな亡くなっていくからだ。
当時の史料で何があったのかは理解できるが、その場にいた人の言葉はまた違った重みを持つ。
その時代を生きてきた人が何を思い、どう行動したのかは、そこにいた人にしか分からない。
本来もっと後世に残っていいはずだが、この時代だとブログやSNSがない。
戦争体験を自費出版しろというのも酷な話だろう。
個人が公に発表する手段が限られているのは、本当に惜しいと思う。
結果、こういった貴重な経験が継承されずに埋もれていく。
俺と名出さんは、老人の家を辞する。
「カステラをっ、よろしくっ、お願いします!」
それは、名出さんがいま出せる精一杯の言葉。
名出さんがこの犬に愛着を持っていることを老人も気づいているだろう。
「息子夫婦に必ず伝えよう。カステラもよい子に拾われて幸せに過ごしていたとな」
老人の手が名出さんの頭を撫でる。
それは感動的なシーンだが……。
「いや、カステラという名は……すみません、彼女が勝手に名前を付けたみたいで」
名前どころか、飼う気満々で、芸まで仕込んだらしい。
「おや、そうなのか? 息子もこの犬にカステラと名付けていたのじゃが……偶然というのもあるのかのう」
「なん……ですと?」
「そうなんですか? 嬉しいですっ!」
名出さんがはじめて笑った。
俺は頭が痛くなった。まさか、もとの名前も『カステラ』だったとは。
残念ネーミングセンスを持つ者が、日本に二人いたことになる。
中三からやり直してはじめて、俺は無駄知識を仕入れたかもしれない。
日本には、残念ネーミングセンスを持つ者が少なくとも二人いる。
大事なことだから、二回言ってみた。
帰り道、名出さんは「やっぱりカステラなんだよ」とドヤッていた。
俺は聞こえないフリをした。