俺は、菱前老人との電話を終えた。
米国の投資会社である
「ついに」よりも「早すぎる」という思いが強い。なぜ今なのか?
バブル期、大いに稼いだヒシマエ重工とはいえ、いま動かせる現金はそれほど多くない。
現金で数千億円を用意するのは大変なはずだ。
『夢』の中でヒシマエ重工は、銀行からの融資でそれを揃えた。
だが騙されたことで、銀行は融資した金の返却を求めた。
当然の話である。そもそも融資金を目的以外に使うことは契約違反となる。
マンションを買うからと融資を受けて、借金返済に使ってはいけないのだ。
ヒシマエ重工は困ってしまった。金は返さなければならないが、手元には現金がない。
かといって資産を売却しようにも、日数がかかる。すぐに返せるアテなど、あるはずもない。
そこに現れたのがGTM社である。
「詐欺師から回収した資金、もしくはこちらが指定する事業や特許、不動産を担保にするのでしたら、お金を貸しますよ」
そう言ってきたのである。
この時はまだ、詐欺師は逮捕され、金も戻ってくるとヒシマエ重工は思っていたと思う。
GTM社から金を借りて、銀行に返却。
詐欺事件の動向を追いつつ、組織再編をはじめていた。
だが、事件は迷宮入りしてしまった。
GTM社への返却期限が迫り、ヒシマエ重工はなくなくドル箱の事業をいくつも譲り渡さざるを得なくなってしまったのだ。
あの詐欺事件でもっとも儲けたのは、詐欺の主犯を除けばGTM社である。
そう言われるほど、GTM社はおいしいところだけを手に入れた。
その後、ヒシマエ重工は細々と事業を続け、荘和コーポレーションに吸収合併されることになる。
抜け殻のようになっていたヒシマエ重工だが、海外におけるノウハウや数多くの拠点は、荘和コーポレーションにとって必要なものだった。
それが格安で手に入ったのだ。
荘和コーポレーションも、巨額銀行詐欺事件で得をした企業のひとつであろう。
だからといって、荘和コーポレーションが詐欺事件に関わったかといえば、それは否。
同じく、事件発覚後に接触してきたGTM社にも、同じ理屈が通用する。たとえ、巨大な利益を得たとしても……。
「まだ詐欺が発覚していないこの時期に接触か……」
菱前老人は主犯を捕まえるため、いまだ騙されたフリをしている。
契約を締結してしまっては拙いので、理由をつけて引き延ばしている最中だ。
「現金をすぐに揃えられない」と「銀行が融資に消極的で」と理由を挙げていたら、「いい話がありますよ」とGTM社を紹介されたらしい。
この出会いは偶然か、それとも……。
数日後、俺は菱前老人の屋敷に向かった。というか、黒塗りの車が『また』家に来た。
それはいい。ご近所の評判が下がるだけだ。
「もうすぐ夏休みじゃな」
「そうですね」
この場で天気の話題は相応しくないが、俺の高校生活の予定も、話のとっかかりとしてはどうなんだろう。
広い和室に、俺と老人の二人だけ。使用人も遠ざけているらしく、気配もない。
「GTM社のことは、驚いた」
「そうでしょうね。俺も驚いています」
この時期に接触してきたことがだ。
『夢』の中で最大の利益を享受したGTM社が、まだ新聞発表も前の段階で接触してきたのだ。
「証拠は集まっておるが、社員は愚直な者が多くての」
「会社員にダブルオーセブン《007》ばりの活動を求めないでください」
「ふむ……たしかに我が社には、ショーン・コネリーはおらんな」
「そこはティモシー・ダルトンと言うべきでは? 私はロジャー・ムーア派ですが」
「ロジャー・ムーアか。あれもよかった。ただ儂は、007より古い時代の……そう、リチャード・バートンのようなタイプが好きでのう」
「……? ああ、ル・カレですね」
「そう。知っておったか」
老人は手を叩いて喜んだ。
バートンは、ジョン・ル・カレの小説『寒い国から帰ってきたスパイ』をもとにした映画に出演している。
悲劇的な結末をむかえるため、あまり成功者である老人が好む映画とも思えないが、個人の嗜好はまた別なのだろう。
「詐欺師を相手にするには、相手の虚実を見抜き、こちらの意図を悟らせないことが重要です。重役の中で適した者がいないというのも分かる話ですが……」
なぜ社内の話を俺に言う?
「きゃつらは、ゆっくりと泳がせる予定じゃった。だが、社内でも銀行買収に期待している者も多くての。引き延ばしも限界かもしれん」
ヒシマエ重工の銀行買収は、戦略的な面もあるが、財閥の悲願でもあるだろう。
もちろん、いまの体力ならば、新規に銀行業務を始めることは可能だ。
だがこれから先、海外展開を視野に入れていく場合、日本国内で信用を経て、少しずつ店舗数を増やしながら海外を見据える……などとやっているヒマはない。
まず海外に強い銀行を買収し、日本国内はどこかの信用金庫を買収するかして支店数を確保するつもりだろう。
その方が、ゼロからはじめるより、よほど時間とコストがかからない。
それが分かっているからこそ、この銀行買収に期待をかけている役員が多いのだと思う。
老人に意見ができるくらいだ。かなり重要なポストを任されているはずで、その者すら今回の詐欺事件について、まだ真相を知らせていない。
「情報漏洩を気にする以上仕方ありませんが、人が足らないのではないですか?」
「その通りだ。……と言うことでの、今度向こうで詳細を詰めるのじゃが、一緒にどうじゃ? もうすぐ夏休みであろう?」
「…………」
「さすがに動く額がデカい。儂が出るしかない。じゃが、周囲の者で詳細を知っているのがほとんどおらん。……なに、後学のためとか、通訳とか、そんな感じで参加してくれんか? もちろん、それなりの礼はするぞ」
老人は、GTM社が出てきた段階で米国に渡ることを想定し、俺に同行してもらうつもりでいたのだ。
おそらくだが、この詐欺事件も、次で決めるつもりだろう。
途中から煮え切らない態度になったことで、相手も不審に思うかもしれない。
この件に関しては、時間が味方してくれるとは限らない。
少しでも不審がられたら、そのまま逃げられてしまう可能性が高いのだ。
老人が腹をくくっているのだとしたら、俺も協力するのはやぶさかでない。
「……分かりました。ちょうどパスポートを申請したところですし、米国までお付き合いします」
「そうか。それはよかった」
老人は破顔した。このあと、パンパンと手を二回叩いて、芸者が「はーい」とぞろぞろ出てこなくてよかった。
最近、そういう接待をされそうで怖いのだ。
なにはともあれ、夏休みに米国行きが決まった。
しばらく雌伏するつもりだったが、事態は俺の予想を超えて進行している……気がする。