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072 英語クラブ(1)

「大賀くん! 勉強教えて!」

 朝、読書をしていると、名出さんが教室にかけ込んできた。


「おはよう、名出さん。朝の挨拶はどこへ行ってしまったんだ?」

「えと、大賀くん、おはよう。朝の挨拶教えて……じゃなくて、数学の勉強教えて! 今日、あたしが当たる日なの」


 名出さんは鞄から数学の問題集を取り出した。

「一時間目は、数学演習だったな」


「そうなの。この二次関数がどっか行っちゃったやつ、全然分からなくて」

 数学演習の授業は、数Ⅰで習った単元の問題演習をする。


 二日前、二次関数の一般式からグラフを書くところを習った。

 頂点がどっか行っちゃったとは雑な表現だが、言いたいことはなんとなく分かった。


「一般式のままでは二次関数のグラフは書けない。まず頭の中で平方完成してみろ」

「へーほーって……ああ、2で割って2倍するやつだよね」


「それだともとに戻るだろ。2で割ったあとが違う」

「あっ、自乗するんだっけ?」


「そうだ。等式が成り立つように同じ数を足したら、同じだけ引く」

「ああっ、なんか思い出してきたわ」


「愁一、おれにも教えてくれ。たぶん今日、おれも当たる」

 名出さんに教えていると、吉兆院もノートを持ってやってきた。


「吉兆院、おまえもか」

 カエサルの気持ちが分かった気がした。


 名出さんは記憶容量が少ないようで、新しいことを詰め込むと、古い知識がどこか行ってしまう。

 吉兆院は、覚えは早いものの、集中力が足りないせいか、小さなミスが多い。


「これは、家でやってくるべきものだろ。二人とも、今日当たることが分かっていて、なぜ勉強してこない?」


「いやー、思い出したのって、愁一が勉強教えてるのを見てからだし」

「あたしは、家に教科書とノートがなくって……」


「ん?」

 聞いてみると、名出さんと吉兆院は、まず家で勉強する習慣がなかった。


 吉兆院は、家に帰ったら鞄はそのまま。

 翌朝になってようやく時間割を確認するという。


 そんな生活を続けていたら、いろいろと手遅れになるだろ。

 そして名出さんはもっと酷かった。


 教科書やノートは、だいたい学校に置いている。

「あたしって、家勉いえべんしないタイプだから、置き勉派なのよね」


「教科書とノートを学校に置いても、勉強したことにはならないぞ」

 家庭学習を家勉と言うが、置き勉は勉強ですらない。


 頭が痛くなったが、それで落ちこぼれない日本の教育制度は優秀だな。

 二人とも、教育委員会に感謝した方がいい。


 結局、二人ともうまく授業を乗り切っていたが、名出さんは半分以上、俺の言うままにノートを取っていただけだ。


 放課後、教科書とノートを机の中に残したまま、帰り支度をはじめた名出さんの頭を小突いた。

「あ痛っ! 大賀くん、何を……?」


「教科書とノートを持って帰れ。それで家で勉強するクセをつけておけ。そしたら、分からないときだけ教えてやる」

「ええっ~」


「自力で解こうとしない者に、これ以上教えるつもりはないぞ」

「ぐっ……わ、分かったわ」


 名出さんはしぶしぶ、本当にしぶしぶ、机の中のものを鞄に詰めはじめた。

 鞄がパンパンになっている。どれだけ置き勉していたのやら。




 今日は『英語クラブ』の日だ。名出さんは重たい鞄をヒィヒィいながら担いでいる。

 クラブが使用している教室に入ると、三年生の一人が顔をあげた。


「あっ、大賀くん。ちょうどいいところに。ちょっと、教えてほしいことがあるんだけど」


外田そとだ先輩もですか?」

「……?」


「いえ、クラスメイトに勉強を教えてまして」

「あ~……大賀くんって、勉強できそうだもんね。逆に勉強が苦手そうなのが……」


 部長の外田夏美なつみさんは、一緒に来た名出さんと神宮司さんをチラ見する。

 名出さんが明後日の方を向いたので、バレバレだろう。


「それで、教えて欲しいというのは?」


「うん、早乙女さおとめ先生が、発音は大賀くんに学べばいいって言っていたでしょ。でも、どうもうまくいかないのよ。何が違うんだろうって思って」


「なるほど……外田先輩の場合、語彙はありますし、使用している文法も概ね正しいです。普通に会話できています……ただ、問題があるかと聞かれれば、イエスとしか」


「やっぱり、問題あるんだ。……ちなみに、どんなところが?」


「外田先輩と英語で会話していると、ときどき気持ち悪いです」

 俺がそう言うと、外田先輩はガーンとショックを受けた顔をした。


「そ、そんなに私……気持ち悪い?」

「シラブルが違うときがあるんですよ。会話中にそれが出ると、引っかかるんですよね」


「シ、シラブル? ごめん、何の話?」

 この時代の英語学習は、読み書きが主流だ。


 かなり難解な文章を読める人でも、不思議なことに、正しく発音できない人がいたりする。

 外田先輩もそのタイプだ。


「シラブルとは、音節の区切りのことです。たとえば、美しいbeautifulはビューティフルと言いますが、辞書を引くと『beau・ti・ful』と書いてあると思います。この区切りがシラブル、音節です。発音するときも『ビュー・ティ・ホゥ』と区切ります。ビュー・ティフルやビューティ・フルと発音はしないのです」


「へえ……?」


「学校では習いませんよね。ですが、ネイティブの人はこの決まりをしっかりと守っています。ヒアリングを上達させるには、単語のシラブル理解は必須と言ってもいいですね」


 日本人が英語を聞き取れない原因のひとつに、このシラブルの軽視があると思う。

 シラブルが違うと、話していても通じないし、相手の単語が聞き取れないのだ。


「単語をどこで区切るのか……考えたことがなかったわ」

 外田先輩は、いままで気にしたことがなかったようだ。


「中学の英語教師は、単語の綴りや文法は試験に出しますが、単語の区切りは重視していないでしょうね」

 名出さんと神宮司さんも顔を見合わせている。どうやら二人も、気にしたことがなかったらしい。


「ねえ、大賀くん。単語を区切るのって、そんなに大事なの?」

 名出さんが首を傾げている。


 リミスは将来、米国にも拠点を持つようになる。

 そのとき、社長は名出さんのはずだ。


 勉強嫌いの名出さんがなぜ、海外進出を考えたのか。

 それはこの英語クラブの影響が大きいのかもしれない。


 ならば、少しでも糧となるようしっかり説明した方がいいだろう。


「今日の昼、吉兆院がハンバーガーを食べていたな」

「うん、いつものことだよね」


「あの店名を音節で区切るとしたら、どこで区切る?」

「えーっと……マクド・ナルド?」


「神宮司さんは?」

「私? ……そうね、マック・ドナルドかな」


「正解はマック・ド・ナルドだ。あれは三音節で区切って発音するのが正しい。正確にカタカナにしようとすれば、ミック・ダー・ノーズになるが、それはいい。マックには、『~の息子』という意味がある。店名を和訳すれば『ドナルドの息子』だ」


「息子? なんか変なの」


「ヨーロッパ系にはビッチ、リッチ、ソン、センなど名前の前か後ろに『~の息子』をつける習慣がいまでも残っている。だからそれほど変ではない。……それはいいとして、このシラブルが合っていないと、いくら発音がよくても相手に通じないことがある……なぜノート?」


 外田先輩だけでなく、名出さんや神宮司さん、それと後から来た英語クラブのメンバーがノートをとりはじめた。


 黒板を使った方がいいのか?


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