「大賀くん! 勉強教えて!」
朝、読書をしていると、名出さんが教室にかけ込んできた。
「おはよう、名出さん。朝の挨拶はどこへ行ってしまったんだ?」
「えと、大賀くん、おはよう。朝の挨拶教えて……じゃなくて、数学の勉強教えて! 今日、あたしが当たる日なの」
名出さんは鞄から数学の問題集を取り出した。
「一時間目は、数学演習だったな」
「そうなの。この二次関数がどっか行っちゃったやつ、全然分からなくて」
数学演習の授業は、数Ⅰで習った単元の問題演習をする。
二日前、二次関数の一般式からグラフを書くところを習った。
頂点がどっか行っちゃったとは雑な表現だが、言いたいことはなんとなく分かった。
「一般式のままでは二次関数のグラフは書けない。まず頭の中で平方完成してみろ」
「へーほーって……ああ、2で割って2倍するやつだよね」
「それだともとに戻るだろ。2で割ったあとが違う」
「あっ、自乗するんだっけ?」
「そうだ。等式が成り立つように同じ数を足したら、同じだけ引く」
「ああっ、なんか思い出してきたわ」
「愁一、おれにも教えてくれ。たぶん今日、おれも当たる」
名出さんに教えていると、吉兆院もノートを持ってやってきた。
「吉兆院、おまえもか」
カエサルの気持ちが分かった気がした。
名出さんは記憶容量が少ないようで、新しいことを詰め込むと、古い知識がどこか行ってしまう。
吉兆院は、覚えは早いものの、集中力が足りないせいか、小さなミスが多い。
「これは、家でやってくるべきものだろ。二人とも、今日当たることが分かっていて、なぜ勉強してこない?」
「いやー、思い出したのって、愁一が勉強教えてるのを見てからだし」
「あたしは、家に教科書とノートがなくって……」
「ん?」
聞いてみると、名出さんと吉兆院は、まず家で勉強する習慣がなかった。
吉兆院は、家に帰ったら鞄はそのまま。
翌朝になってようやく時間割を確認するという。
そんな生活を続けていたら、いろいろと手遅れになるだろ。
そして名出さんはもっと酷かった。
教科書やノートは、だいたい学校に置いている。
「あたしって、
「教科書とノートを学校に置いても、勉強したことにはならないぞ」
家庭学習を家勉と言うが、置き勉は勉強ですらない。
頭が痛くなったが、それで落ちこぼれない日本の教育制度は優秀だな。
二人とも、教育委員会に感謝した方がいい。
結局、二人ともうまく授業を乗り切っていたが、名出さんは半分以上、俺の言うままにノートを取っていただけだ。
放課後、教科書とノートを机の中に残したまま、帰り支度をはじめた名出さんの頭を小突いた。
「あ痛っ! 大賀くん、何を……?」
「教科書とノートを持って帰れ。それで家で勉強するクセをつけておけ。そしたら、分からないときだけ教えてやる」
「ええっ~」
「自力で解こうとしない者に、これ以上教えるつもりはないぞ」
「ぐっ……わ、分かったわ」
名出さんはしぶしぶ、本当にしぶしぶ、机の中のものを鞄に詰めはじめた。
鞄がパンパンになっている。どれだけ置き勉していたのやら。
今日は『英語クラブ』の日だ。名出さんは重たい鞄をヒィヒィいながら担いでいる。
クラブが使用している教室に入ると、三年生の一人が顔をあげた。
「あっ、大賀くん。ちょうどいいところに。ちょっと、教えてほしいことがあるんだけど」
「
「……?」
「いえ、クラスメイトに勉強を教えてまして」
「あ~……大賀くんって、勉強できそうだもんね。逆に勉強が苦手そうなのが……」
部長の外田
名出さんが明後日の方を向いたので、バレバレだろう。
「それで、教えて欲しいというのは?」
「うん、
「なるほど……外田先輩の場合、語彙はありますし、使用している文法も概ね正しいです。普通に会話できています……ただ、問題があるかと聞かれれば、イエスとしか」
「やっぱり、問題あるんだ。……ちなみに、どんなところが?」
「外田先輩と英語で会話していると、ときどき気持ち悪いです」
俺がそう言うと、外田先輩はガーンとショックを受けた顔をした。
「そ、そんなに私……気持ち悪い?」
「シラブルが違うときがあるんですよ。会話中にそれが出ると、引っかかるんですよね」
「シ、シラブル? ごめん、何の話?」
この時代の英語学習は、読み書きが主流だ。
かなり難解な文章を読める人でも、不思議なことに、正しく発音できない人がいたりする。
外田先輩もそのタイプだ。
「シラブルとは、音節の区切りのことです。たとえば、
「へえ……?」
「学校では習いませんよね。ですが、ネイティブの人はこの決まりをしっかりと守っています。ヒアリングを上達させるには、単語のシラブル理解は必須と言ってもいいですね」
日本人が英語を聞き取れない原因のひとつに、このシラブルの軽視があると思う。
シラブルが違うと、話していても通じないし、相手の単語が聞き取れないのだ。
「単語をどこで区切るのか……考えたことがなかったわ」
外田先輩は、いままで気にしたことがなかったようだ。
「中学の英語教師は、単語の綴りや文法は試験に出しますが、単語の区切りは重視していないでしょうね」
名出さんと神宮司さんも顔を見合わせている。どうやら二人も、気にしたことがなかったらしい。
「ねえ、大賀くん。単語を区切るのって、そんなに大事なの?」
名出さんが首を傾げている。
リミスは将来、米国にも拠点を持つようになる。
そのとき、社長は名出さんのはずだ。
勉強嫌いの名出さんがなぜ、海外進出を考えたのか。
それはこの英語クラブの影響が大きいのかもしれない。
ならば、少しでも糧となるようしっかり説明した方がいいだろう。
「今日の昼、吉兆院がハンバーガーを食べていたな」
「うん、いつものことだよね」
「あの店名を音節で区切るとしたら、どこで区切る?」
「えーっと……マクド・ナルド?」
「神宮司さんは?」
「私? ……そうね、マック・ドナルドかな」
「正解はマック・ド・ナルドだ。あれは三音節で区切って発音するのが正しい。正確にカタカナにしようとすれば、ミック・ダー・ノーズになるが、それはいい。マックには、『~の息子』という意味がある。店名を和訳すれば『ドナルドの息子』だ」
「息子? なんか変なの」
「ヨーロッパ系にはビッチ、リッチ、ソン、センなど名前の前か後ろに『~の息子』をつける習慣がいまでも残っている。だからそれほど変ではない。……それはいいとして、このシラブルが合っていないと、いくら発音がよくても相手に通じないことがある……なぜノート?」
外田先輩だけでなく、名出さんや神宮司さん、それと後から来た英語クラブのメンバーがノートをとりはじめた。
黒板を使った方がいいのか?