家に帰り、俺は手紙を開封した。
ややクセのある字を目で追っていく。
どうやら出版社経由で届いたらしく、アメリカの経済学者ジョー・ロジャーは、俺からの手紙に大層驚いたようだ。
日本に読者がいて、とても喜んだと書いてある。
俺は手紙に、彼が出版した書籍の感想と自分の考察を書いた。
そして、ぜひ日本でも出版してほしいと綴った。
それについて、彼からの返答は至ってシンプルだった。
――日本での出版は、
要約するとこんな感じだ。
米国は70年代後半から80年代初頭にかけて、急激なインフレに見舞われた。
毎年10パーセント以上の物価上昇があったのだ。
このインフレはすさまじいもので、米国民の生活を一変させてしまった。
政府はすぐに物価上昇を抑える対策をいくつも打ち出した。
それにより、景気は低迷したものの、インフレはある程度抑制された。
80年代に入って、米国はレーガン大統領が行った経済政策――通称『レーガノミクス』を打ち出した。
これは日本で行われた経済政策の元ネタにもなっている。
ジョー・ロジャー氏は、この『レーガノミクス』を経て、米国が90年代に向けていかに飛躍すべきかを予想している。
そしてその予想は、大当たりする。
90年代、米国は10年近くの長きにわたって、経済成長を遂げるのである。
これから日本は、米国より10年遅れて不況に入る。
だが日本は、『レーガノミクス』に変わるものを打ち出せなかった。
それゆえ、長い不況に突入してしまう。
「北風を受けて転覆したからといって、北風が吹くたびに帆を畳む民族だしな……」
70年代後半に極端なインフレを起こした米国は、金融政策によって景気後退。
デフレ時代に突入した。
だが米国は、すぐに『レーガノミクス』を打ち出して、デフレを克服したのだ。
日本はバブル景気がはじけて、このあと景気後退とデフレに突入する。
ここまでは米国と同じだ。
だが政府は、デフレを克服する政策を打ち出さない。
「時期尚早か……」
ジョー・ロジャーからの手紙には、その理由も書いてある。
『巨額な貿易赤字が生まれるこのやり方を日本の
それに尽きるわけだ。
政府がデフレをインフレに持っていこうとすれば、金利を上げざるを得ない。
そうすると海外から日本に資金が集まってくる。
金利を上げれば、そうならざるを得ない。
するとどうなるか。株高と為替高(円高)がやってくる。
90年代のいまでさえ、日本製品は世界で割高だと思われているのだ。
これに円高が加われば、海外での販売価格はさらに高騰し、日本企業の国際的な競争力が低下する。
円高だから輸入品が安く買えると喜ぶのは消費者だけだ。
輸出品が売れなくなり、輸入品ばかり増えれば、貿易赤字が拡大する。
そう、当時の米国のように。
「2000年以降なら、海外工場が増えるから状況が違うのだが……だから時期尚早か」
さすが経済学者だ。日本の状況をよく分かっている。
不況を克服するために、さらに不況になる政策を政府がいますぐ採れるはずがない。
彼の著書が日本で出版されたのが2010年。時期としてはやや遅かった。
「……10年後なら、いけるかもしれないな」
いま出版しても見向きもされないだろうが、10年後ならば分からない。
もしだれも注目しないのならば、俺が翻訳してもいい。
これについては、日本にとって一番良い方法を考えてみよう。
先日、妹の親友とその彼氏が巻き込まれた事件。
力技で解決させたのだが、その後、二人がお礼に来た。
そのとき持参したケーキが、妹の好物らしい。
リサーチ済みだったのだろう。
ことあるごとに妹が話題に出すので、買いに行くことにした。
『銀座コーナーコナー』というチェーン店らしい。
全国展開している洋菓子店だが、利用したことはない。
お得意様先に持参するときは、もっと高級店で買う。
女子中学生が愛用する店を選ぼうとは思わない。
というわけで、このチェーン店には入ったことがなかった。
「げっ!」
店に入った途端、そんなことを言われた。
「ずいぶんな挨拶だな」
「い、いらっしゃ……ません?」
頬が引きつっている
ここでアルバイトしているのだろう。それは感心なことだが、客に向かって「げっ!」はないと思う。
「試験が近いのに、アルバイトとは余裕だな」
「私は高校出たら働くつもりだから、勉強は平均以下でもいいのよ」
もうすぐ学期末試験がはじまる。
それが終われば夏休みだ。
神宮司さんは、目線で「早く買って帰れ」と訴えかけてくる。
「イチゴとチョコのショートケーキを一つずつ。それにチーズケーキを二つくれ」
「かしこまりました。保冷剤を入れておきます。これは30分ほど持ちますが、追加を希望される場合は一個50円で承っております。追加をご入り用ですか?」
「そのままでいい」
神宮司さんは機械的な動きで、紙箱にケーキを詰めていく。マニュアルから少しでも逸脱したくないと顔に書いてあるようだ。
「お待たせいたしました。毒殺に使う際は、当店の紙ナプキンは外していただけると……」
「するかっ!」
「ひぃっ! で、でも、保冷剤と紙ナプキンには店名が印刷されているので……」
「違う。毒殺しないと言ってるんだ」
今日の神宮司さんはアルバイトモードかと思ったが、いつもの神宮司さんだった。
彼女はなぜか、俺の顔を見ると物騒なことを口走る。
他の店員が不審そうな顔でこっちを見ているし、後ろの客が「毒殺……」とか呟いている。
風評被害が甚だしい。
俺はケーキを受け取って、店を出る。
自動ドアが閉まる瞬間、「殺し屋が来たの?」と神宮司さんに尋ねている声が聞こえた。
「わぁ~! ありがとう、お兄ちゃん」
妹の冬美は、土産を受け取るとスキップする勢いで台所へ向かった。
「チーズケーキは、父さんと母さん用な」
「うん。わたしはチョコもらってもいいよね。あっ、お兄ちゃんにコーヒー淹れてあげる。うんと苦いのね。トリップするやつ」
「ドリップな。一文字違うだけで意味が変わってくるぞ。それと外で言い間違えるなよ」
「分かったって。でもお兄ちゃん、風評被害に慣れてるから、大丈夫だよね」
「慣れてない!」
神宮司さんのアレは……慣れているとは別次元の話だ。
「しかし、高校出たら働く……ね」
ちょっと意外だった。授業中の神宮司さんは、吉兆院や名出さんよりよっぽど優秀だからだ。
進学が就職かは、本人の意思が尊重されるべきだが、やはり少しもったいないと思った。
そういえば2030年当時、神宮司さんはどこで何をしていたのだろう。
しっかり者の印象だし、どんな環境でも問題なさそうに思えるので、あまり心配はいらなそうだが。
「はい、お兄ちゃん。どうぞ」
「ありがとうな、冬美」
妹の淹れてくれたコーヒーは、たしかに苦かった。