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101 宿にて

 ここへ来た目的は達成できた。

 もし双子と連絡が取れなかったとしても、今後、彼女を通して情報を得ることもできる。


 不審に思われていなかったので、時間をかけて彼女と親しくなってもいいのだ。

 そんなことを考えていたら、名出さんが俺を睨んでいた。


「なんだ?」

「何か、変なこと考えてるでしょ」


「明日のことを考えていたんだ。もしあの双子と会えなかったら、どうしようかと思ってな」

「ふうん? どうするの?」


「そうしたら日を改めればいい」

「……むう」


 名出さんは不満顔だ。

「それよりロッカーから鞄を出して、ペンションに行くぞ」


「……っ、うん!」

 なぜか気分をよくした名出さんが腕を回してきた。高原とはいえ、暑いのだが。


 これから向かうのは、ペンション『dressy』。

 正装や礼服を意味するドレスの派生語だ。おそらく優雅とか派手をイメージして、ペンションの名前にしたのだろう。


 名出さんが、ずんずんと先を歩く。

 すでに地図で場所を確認してあるようだ。


「ここだよ!」

 山小屋をイメージさせる深緑色の外壁が特徴のペンションだった。


「……隣じゃなくてよかったな」

 隣のペンションは『Honey Baby』。


 直訳すれば『蜂蜜の赤ちゃん』だが、ともに『愛しい人』を意味する単語。

 意味を強調するために、並べたようにみえる。そしてペンションが、全体的に白と薄いピンクに塗られていた。


『Honey Baby』の方に泊まらなくて、本当によかった。


 チェックインを済ませて部屋に入ると、名出さんが「トランプしよ」とやってきた。

「少しは落ち着くとか、できないのか?」


「だから落ち着いているじゃん」

 どの辺が落ち着いているのかよく分からないが、ババ抜きをしようと言いだしたので、デコピンで黙らせた。


 何が悲しくて、二人でババ抜きをしなければならないのか。


 意外にも名出さんは、父親とよくトランプをしているらしい。

 仕事一筋で、あまり娘に構わない人かと思ったが、トランプならば準備もなく遊べるし、父娘の会話で気まずくなることもない。いいチョイスと言えよう。だが、ババ抜きはない。


「よし、ポーカーをするか」

「ポーカーね。あたし強いよ」


 自信満々に言っていた名出さんだが、俺にボロ負けした。

 予想通り、感情が豊かで『ポーカーフェイス』ができないのだ。


「まだやるのか?」

「う~……今度はセブンブリッジで勝負よ!」


「二人でもできるが……まあいいか」

 名出さんは、ポーカー以上にボロ負けしていた。


 夕食の時間になると、一階の食堂に呼ばれた。

 好きなテーブルを使っていいと言われると、名出さんは俺の向かいに座った。


 しばらくして、宿泊客が全員集まった。

 料理が運ばれてくると、ペンションのオーナーが一品ごとに解説している。こういうスタイルのペンションなのだろう。


 それを聞いた名出さんは、「へえ~」「そうなんだ~」と感心している。

「ちゃんとしたコース料理だな。それとパンは焼きたてだ。人を雇って裏で焼いているのだろう」


「これ? たしかにパンは熱々だよね。このメニューは?」

「ワインのリストだな。未成年の俺たちには関係ない」


 この宿のオーナーは、商売上手だな。

 テーブルに置かれているワインのメニューには、グラスとボトルの値段が書かれている。


 各テーブルを回ってワインの注文を聞いているが、そこそこ上乗せした金額になっている。

 雰囲気がそうさせるのか、三分の一のテーブルで注文が入っていた。


 コース料理は、可もなく不可もなくといったところだ。

 魚料理は、冷凍パックされたものを湯煎したのだろう。こういうのがこの時代にもう存在しているとは知らなかった。


 魚料理は素人が捌いて調理するくらいなら、出来上がったものをそのまま出してくれた方が美味しかったりする。

 オーナーは、手を入れるところと抜くところをうまく心得ているようだ。


「おいしかったねえ」

「そうだな。昨今の温泉旅館で出されるものよりは、よっぽど良かった」


「……?」

「大きな旅館は、大人数に対応する関係上、一品一品に手間をかけられないんだ」


 この時代だとまだ、会社の慰安旅行が全盛期だったりする。

 一つの会社で二百人、三百人がやってきて、宴会をするのだ。他の団体客だっている。


 それが毎日続くわけで、凝った料理など望むべくもない。

 とにかく早く用意できる料理ということで、味は二の次にされることが多かった。


 まだこういったペンションやプチホテル、民宿の方が美味しいと思ったほどだ。

「そうなんだ……慰安旅行だよね? お父さんもよく行くけど、あまり美味しくないんだ」


「値段の割りにというところだな。料理に対する考え方は、七十年代の頃とあまり変わっていないだろうな」

 バブル期、黙っていても団体客が押し寄せてくるからだろう。どの旅館もあまり経営努力をしているようには見えなかった。


 ありきたりの宴会料理で宿泊客が満足していたのか不明だが、バブル崩壊後に多くの旅館が経営難となる。

 生き残るため、また来たくなるような魅力を提供していく方向へ舵を切った。


 そのひとつが食事だ。団体客に完全依存していた旅館ほど、その切り替えがうまくできず、廃業していった。

「これから食事はどんどん美味しくなる。その頃になったら、父親に連れて行ってもらえばいいさ」


 どの旅館でも、生き残りをかける時代に突入するはずだ。

 料理だけでなく、サービスの質そのものは上がる。


 そしてバブル崩壊後に生き残った旅館で、料理が不味いところはひとつもないだろう。

 いくなら、そのときで十分のはずだ。


 夕食が終わり、宿泊客が順番で風呂に入る。

 ペンションの風呂はどんな感じなのかと思ったら、小さな一人用の……メルヘンチックなバスタブだった。


 しかも浅い。肩まで浸かろうと思ったら、足が出てしまう。見た目重視のバスタブだ。

「毎回お湯を入れるのか」


 入浴が終わったら、次の人のために軽く掃除もするらしい。なんというか……メルヘンを維持するのも大変だ。

「そういえば、脱衣所にあった洗面台もメルヘン仕様だったな」


 装飾を重視した洗面台だったので、使いにくそうに見えた。

 ああいうのを好む人がここに宿泊するのだろう。難儀なことだ。


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