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103 発覚した事実

 菱前老人の屋敷に行くのは、何度目のことだろうか。

 荘和コーポレーションの躍進を阻止するためにも、巨額銀行詐欺事件は起きない方がいいのだが、まさか俺がここまで深く介入するとは思わなかった。


 米国にまで同行したおかげで、エーイェン人の住処すみかを見つけることができた。

「同じ人生をやり直しているのに結果がこうも違うとは、人間万事塞翁が馬ということか」


 一度目の人生は、本当に自分のことしか考えていなかったのだなと思い知らされる。

 考え事をしながら歩いていたら、菱前老人の屋敷に着いた。


 間もなく銀行詐欺事件は決着する。

 俺がここに来るのも、今日が最後になるかもしれない。


「よう来たな。外は暑いであろう」

「どうでしょう。以前、もっと暑い夏を体験したような気がします」


「はて? 最近、そんな年があったかのう」

 老人は首を傾げていた。


 俺が体験したのは、2030年の夏だ。

 あのうだるような暑い夏の日から、まだ一年も経っていないのだから不思議だ。


 座敷に通され、俺は菱前老人の前に座った。

 座卓ざたくを挟んだ老人の顔は笑顔だった。ニコニコしている。不気味だ。


「ずいぶんと機嫌がいいようですが」

「うむ。お主に頼まれた写真の人物を調べていたら、別のことが分かっての……おっと、それはあとにしよう」


 老人は笑みを絶やさない。よほどいいことがあったのだろう。

「これが調査報告書だ。英語だが、お主なら大丈夫であろう」


 差し出された冊子は、たしかに英語で書かれていた。

「問題ありません。では、拝見します」


 印刷が荒いのは、FAXで送られてきたものをコピーしたからだろう。

 インターネットがないこの時代ならば、日本とアメリカで情報をやり取りする場合、航空郵便かFAXくらいしか手段がない。


 表紙に書いてある「private eye」の部分に注目した。

 どうやら探偵事務所に調査を依頼したようだ。


 私立探偵には、「private detective」と「private eye」の二つの表現がある。

 日本では探偵を「detective」と表現することが多いので、前者の方が分かりやすい。


 米国で暮らすと分かるが、私立探偵にはどちらの表現も同じくらい使われている。

 ニュアンス的な差異としては、「private detective」は公的なときに使われることが多い。


 お堅い文書の中に出てくるときは、主にこっちだ。

 一方、「private eye」はフランクなときに使われる。


 テレビや映画、小説やマンガなどに登場する私立探偵は、こちらを使う方が多い印象だ。

 ホール&オーツの曲『Private Eyes』などは、そのまま使われた例だろう。


 ただし作家パーネル・ホールは、探偵を「private detective」と表現している。

 原書で読むと日本の興信所のようなイメージを持ってしまうが、やっていることはしがない日銭稼ぎなので、イメージ先行だと混乱してしまう。


 もう少し後にあると、大沢在昌が「アルバイト探偵」という小説を発表する。

 探偵と書いて「アイ」と呼ばせるような粋なことをする。


 これはのちにシリーズ化されて、「アルバイトアイ」シリーズと呼ばれるようになる。

 日本で探偵を「private eye」と呼ぶようになったのは、この頃からかもしれない。


 報告書の二ページ目からは、調査の結果が書かれていた。

 俺はゆっくりと、資料に目を通した。


 写真に写っていた若い男の名は奥津おくつ利明としあき、1968年生まれの23歳。

 俺の記憶通りの名前で、歳も同じくらいだ。やはり写真の男は、俺の上司で間違いなかった。


 後ろにいる女性は彼の母親で、奥津絹枝きぬえ、1942年生まれの49歳らしい。

 親子らしいと思ったが、どうやら当たったようだ。


 雑貨屋を開いたのは八年前。好景気の日本からやってくる観光客目当てだろう。

 日本語ができれば、土産物を適当に並べているだけでも、それなりの売り上げがあったはずだ。


 まさか俺の上司が、こんなところで雑貨屋を営んでいたとは思わなかった。

 すでにどこかの会社の第一線で働いていたのかと思っていたのだが。


 資料を読み進めると、上司の母親絹枝の両親についての記述があった。

 つまり、上司の祖父母になるわけだ。


 絹枝の父親は奥津つとむで、生年は不明。日本人強制収容所の中で死亡とある。

 そして母親は奥津タエ。こちらは、1988年に死亡とある。


「……そうか」

 第二次大戦当時、米国は「自国で反社会的活動をする可能性がある」と、多くの日本人を強制収容所に送った。社会から隔離したのだ。


 米国が参戦した翌年から隔離政策をはじめたはずなので、1942年からだと思う。

 それが終戦の1945年まで続く。


 資料によると、利明の祖父は強制収容所から出ることなく、亡くなっている。

 まだ若かったはずだ。それがどうして亡くなったのだろうか。


 彼らは住んでいた家や持っていた財産を奪われ、フェンスに囲まれた砂漠の中に生きることを強いられた。

 過酷な環境で、先の見えない収容所生活だ。大変だっただろう。


 そこで生まれた赤子が、利明の母親だ。

 もしかすると、少しでも環境をよくしようと無理したのかもしれない。


 ただ、フェンスに近づいただけで銃を向けられる環境で、何ができたとも思えないが、無理をしたがゆえに身体を壊したのかもしれない。


 とにかく資料の中では、どのようにして生き、どうして亡くなったかの記述はない。

 想像するしかないが、強制収容所生活が原因だったように思う。


 利明の祖母、つまり絹枝の母親も四年前に亡くなっている。

 母子家庭らしく、利明の父親は不明らしい。短い日数で調査したのだろうし、分からないことも致し方ない。


 二人の経歴は二ページ目までで、次のページからは交友関係や二人の評判について書かれていた。

 流し読みしていていたが、ある文章に目が留まった。


 ――タエと絹枝の母子は、ともに取り残された荘和建設の社員たちに育てられた


「荘和建設!」

 荘和建設は、荘和コーポレーションの前身だ。


「どうした?」

 老人が声をかけてきた。


「いえ……ただ、俺の中で『繋がったな』と思いまして」

「……?」


 俺を嵌めた上司は、フェニックスファンドからやってきた。

 たまたま転職先に荘和コーポレーションを選んだのだと思っていた。


 荘和コーポレーションに因縁があるとは、考えもしなかった。

 それはそうだ。俺が世界へ躍進する契機を作る前までは、国内しか拠点がなかったのだ。


 その後、欧州、中東、米国へと順に拠点を増やした。

 ずっと米国にいた奴が荘和コーポレーションと関わりがあったとは、夢にも考えていなかった。


 だがここにある文章を読み解くと、こうなる。

 上司の祖父または祖母は荘和建設の社員で、日本に引き揚げることができず、米国に取り残された。


 名出さんが拾ってきた犬を届けた老人宅にあった写真。

 荘和コーポレーションの前身である荘和建設は、かつて北米に進出する準備を整えていた。


 高層建築のノウハウを得ようと、社員や作業員を米国に派遣したのだ。

 老人はロサンゼルスで働いていたと言った。そしてこのリトル東京がある場所もまたロサンゼルスだ。


 当時、荘和建設は金がなかったのだろう。

 米国との関係が悪化したあとでも、全員を一度に帰国させることは叶わなかった。


 老人はまだ若かったため、優先的に帰国することができたが、多くの人は残り、その後、連絡が取れなくなった。


 それはそうだ。強制収容所にいれば連絡はできないし、戦後帰国しようとしても日本は混乱の真っ最中。

 荘和建設も、そんな余裕はなかっただろう。


 それでも正社員ならば帰国する道もあっただろうが、一時的に雇われた作業員などでは、書類も残っているか怪しい。

 結果、帰るに帰れず、米国に留まったのではなかろうか。


 戦時中に子供が生まれたのならば、なおさらだ。

 つまり奥津利明の祖父か祖母は、荘和建設に裏切られ、日本へ帰る手段を失った……?


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