1991年9月13日、金曜の夜。
俺は成田空港から、ロサンゼルス行きの飛行機に乗った。
到着までのおよそ十時間。
機内で、これまでのことを思い返すには十分な時間だった。
すべては、あの日から始まった。
進路面談のとき、その場の思いつきで担任の出身高校に進学することを決めた。
もはや俺には、いい高校に進み、いい会社に入って出世するつもりはまったくなかった。
上司と会社に裏切られ、怒りと虚しさだけが残っていた。
そんな会社も、もはや『夢』で経験したように大きく発展することはないだろう。
ヒシマエ重工は詐欺に合うことがなくなり、吉兆院建設、リミス、戸山観光だって荘和コーポレーションに吸収されることはなくなったと思う。
周囲の人の手助けをし、亡くなるはずだった人を助けただけなのだが。
自分でもまったく予想できない運命の悪戯で、荘和コーポレーションに復讐を果たしてしまったようだ。
そして俺は、もうまもなく、もう一つの運命と再会を果たす。
翌朝七時。
ロサンゼルス国際空港に降り立った俺は、タクシーを拾ってロサンゼルスにあるリトル東京に向かった。
およそ二週間前。
9月1日になると、菱前老人の言葉通り、新聞各社は一斉に巨額銀行詐欺事件の報道をはじめた。
未遂に終わったとはいえ、巨大産業を狙った詐欺事件。
しかも契約締結時に一斉逮捕というセンセーショナルな出来事。
すでにいくつかの国で逮捕者が出ていたことも相まって、報道のネタには事欠かなかったようだ。
世間の驚きは凄まじく、組織的な犯罪組織が『ジャパンマネー』を狙っているとこぞって報じた。
それはある意味正しい。
いまはまだ、ジャパンマネーが世界を席巻している。
日本企業の時価総額はとんでもない値を叩き出していて、その金が狙われない方がおかしいとさえ言えるのだ。
そして逮捕者が世界各国に広がっていることで、日本以外の国でも関心が高い。
事件を事前に見抜いた日本の警察の優秀さがクローズアップされ、絶賛されていた。
警察に彼らの情報を届けたのは菱前老人であり、ソースは俺が『夢』で見聞きした記事なのだから、警察としては非常にこそばゆいことになっただろう。
もちろん裁判はこれからだし、取り調べでさらに多くの人間が浮かび上がってくると思う。
警察には、そこをがんばってもらいたいと思う。
「……ここか」
見覚えのある店の前まできた。といっても写真だが。
俺は金土日月の4連休を利用してここまできた。
今年はちょうど、敬老の日が日曜日となって月曜日が代休。渡米するのにちょうど良かったのだ。
菱前老人宅で見たのと同じ土産物の雑貨店。
俺はその中へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
俺を日本人と見たのか、若い男が日本語で話しかけてきた。
見間違えるはずもない。
若くなっているが、俺の上司だった奥津秀明だ。
「何か手頃な土産物を買いたいのですが」
俺も日本語で返事をする。
「ご旅行ですか? だったらあまり重くならないものがいいですね。プレゼントにするなら、別料金でラッピングもできますよ」
両親が日本人だからだろう。流暢な日本語だ。
俺の元上司だったこの男は、巨額銀行詐欺事件にも関与していた。
お手伝い程度だったらしいが、一斉逮捕されたときにその名前があったのだ。
俺が菱前老人に頼んで、写真の人物を調べてもらったことがある。
老人はこの男を最後まで調べて、俺に結果を教えてくれたのだ。
俺が彼の顔をマジマジと見ていたからだろうか。
「何ですか?」
彼が不審そうに尋ねてきた。
「なんだかとても疲れているように見えたものですから」
俺の言葉に彼は「ああ」と納得した表情を浮かべた。
薄暗い店内でも分かるくらいに顔色が悪い。
目が落ちくぼみ、頬がげっそりとしている。
生活に疲れたサラリーマンが浮かべる、表情筋を失った感じが一番近いだろうか。
「何か心配事でも?」
こんな
だからこそだろうか。「そんなに分かりますかね」と乾いた笑いをひとつしたあと、俺の元上司は語った。
「少々失敗しましてね。卒業を待たずに大学を去らなくてはならなくなりました」
力なく笑う姿から、諦観の表情が見て取れた。
すでに俺は、彼が詐欺未遂容疑の関係者として逮捕されていることを知っている。
ここにいるということは、身柄を拘束されずに起訴されるのだろう。
たしか身柄の拘束には税金が使われるため、米国では公判前でも保釈が認められる。
逃亡すれば保釈金は没収されるし、逃亡者の情報はバウンティハンターに流される。ゆえに逃亡するのは下策だ。
彼の話から、すでに大学は退学になったことが分かった。
本来ならば詐欺で大金を手にし、いい大学を卒業して、いい企業に就職したのだろう。
順調にキャリアを重ね、最終的に俺の上司になるはずだった。
だが、詐欺事件が未遂に終わって本人は逮捕。大学を退学させられて、いまは裁判を待っている状態。
俺は元上司に復讐を果たすつもりだった。
だが不思議と、いまの姿を見ても歓喜の気持ちは浮かんでこなかった。
もはや元上司のことなど、どうでもいいのかもしれない。
ここへ来たのは、俺なりのケジメをつけにだが、この顔を見ただけでもう果たされた気分だ。
眼の前の彼はいま、『詐欺は無駄』だと気づいただろうか。
復讐はむなしいと考えただろうか。
「――これなんか、どうです?」
彼が示した土産物は、陶器でできた貯金箱だった。
米国の国旗を箱型に模したもので、センスがいいとはお世辞にもいえない。
「いいですね。これにします」
俺は薦められた貯金箱を買って店を出た。
専用の箱すらないそれは、厚めの紙袋に入れられ、「特別ですよ」と、これまた厚めのビニール手提げ袋に入れられた。
俺の元上司は、このあとどうするのだろうか。
なんとなくこのリトル東京に住み続けるのではないかと思えた。
本来のリトル東京は、日本人観光客が減ったせいで中国系、韓国系の店に取って変わられる。
だがそれは表向きの理由で、本当は詐欺事件で大金を手にした者たちが、ここを離れたからではないだろうか。もちろん、真実は分からない。
近くの海に来た。
この海の先には日本がある。
俺は紙袋の中から先ほど買った貯金箱を取り出した。
決してデキが良いとはいえない貯金箱。彼は生涯、これを売り続けるのだろう。
俺は手にした貯金箱を海に向かって投げた。
貯金箱は放物線を描いて水面に落ち、小さな波しぶきとともに海中に消えていった。
俺は振り返らなかった。