それから俺はキエン・マツシマ工作員と共にネットからリアルへ、リアルからネットへと秘密作戦を進めた。今や人工知能を当たり前のように使う時代……だと思っていたら人工知能を使うための人工知能を作って使う? なんだそりゃ。日本語でお願いします。俺の義務教育ではそういうのやらなかったから、一応総務省のホームページぐらいは見たけど参考にしかならない。情報より英語と心の勉強ばかりだったからな。クロームブック基本支給なんて、贅沢な。心のブック基本支給でいいだろ。
キエンがキエンの家の部屋でキーボードを打つのを後ろから腕組んで見ているとスマホが震えた。
「もしもし?」
「ば、茨戸さんっ……」
「どうした、翼ちゃん?何かあった?」
「た、助けてください」
彼女は次いで、何があったかを言った。俺は「助けてください」の次の言葉に、彼女の掠れるように震える事実を告げる言葉に、声が出なかった。表情を悪くして、音を立てて飲み込み、「すぐに行く。待っていろ」と自分の足を動かすために大きな声で返事をした。キエンに一言掛けて、飛び出した。
〈襲われました〉
やはり物語は俺を待ってはくれない。走れ。
人工知能の知能に追いつけない、時代遅れの人間は地面を走らないと時代の最先端は走れない。キエンは俺の欲しい情報を瞬く間に入手してくれた。もう少しで何事もなく、いつも通り完璧に終わらせられるはずだったのに。相手も、敵の首謀者も誰かおおよそ分かりつつあった。作戦実行の準備にはもう少し時間が掛かるが、おおよその指示は出した。この騒動は確実に終わらせなければいけない。だからこそ、今は走れ。
欲しい情報も、いらない情報も一度に調べて手に入る量は莫大。一日で江戸っ子の一年分の情報を目にする現代。普通の人は処理しきれなくてほとんど見捨てている。これが現代。だから情報は上手く拾わなきゃ。今はスマホを開けば目の前に転がってくるんだから、探すまでもない。キエンも次々に見つけては拾っていた。楽な世の中になったよね。
※ ※ ※
「は?本当に?キスをされた?誰に?」
「ファンだと名乗る人です。でも私は、そのような方はファンだとは思えません」
「まじかよ。中学生の女の子なんて、洒落にならないぞ。犯罪だ」
「はい。言葉になりません」
「落ち着いているな。キスは無くても、似たようなアンチは過去にもいたのか。まったく、ロリコンドルオタなんて俺でも吐き気がする」
多様性が認められるのは、個人の性格だけだ。趣味嗜好は個人の範囲から外れてはいけない。それは迷惑でしか無い。線路内や雪が積もる私有地に立ち入って写真を取るのも同じ類の迷惑。自分の趣味嗜好を満たすため、他人の迷惑を顧みない同人種。みんなやっているから私もやりたい。同じ写真を撮りたい。そんなバカしかいないから大切な樹を切ることになるんだ。哲学の樹も白樺並木も。オーバーツーリズムってレベルじゃない。アイドルにキスを迫る犯罪と同じ。甘ったれクリーチャー。
「辛い目に遭ったな。その、大丈夫か。その、例えば男を見るだけで吐き気するとか、そういうの本気で無いか?症状あるなら優秀な医師を知っているから遠慮なく言えよ。少なくとも俺は味方だ。望むならそのファンを名乗る男を連れてきて制裁することもできる。懲らしめた後に山中に転がすとかも楽勝。最近は熊のねぐらに全裸で転がすのが流行りかな」
「いえ、大丈夫です。男性嫌悪とか、そこまでではないです。茨戸さんは、優しい人です。信じようと思っています。でも、やっぱりこれはショックです。見知らぬ人は怖いです。学校の同級生も。私をアイドルだったと知っていますから。性欲の対象にされても不思議ではない。怖いです。今は落ち着こうとしているだけです。漠然とした不安が突然心に現れたので、どうしたら良いか分からないのが怖いです。ごめんなさい。助けてください」
「もちろん。俺は味方だと言ったばかりだからな。助ける。チカラになる。それにしても身勝手で理不尽で災難。やるせない。護衛をつけよう。これはおれの仕事の範囲内だ。氷永会に頼むか、創成川リバーサイドのガキ共に頼むか。どっちでもすぐに呼べる。どっちが良い?」
「では、ヒダカさんにお世話になりたいと思います。顔を合わせたことのある人も居ますから」
「分かった。俺から連絡しておく」
「ありがとうございます」
まったく、本当にそのバカは自分の愚行で捕まるリスクより、得ることができる自己満足の方が大きいって考えたわけだ。賠償とか慰謝とかの金を払うことになっても構わないんだろうよ。手に負えない。理不尽極まりない。その覚悟で一生に一度の思い出を強制的に作ったんだ。
それにしてもこの強攻策。翼ちゃんの乙女心がずたずただ。ファーストキスだったらどうするんだ。まあ、既に済ませてあるとは思っているけど。
俺はなんとなくタカと恋仲なんじゃないかと思っている。あいつがビジネス以外で他の人間に、特に女を個人として意味なく擁護することは考えにくい。男社会だ、あそこは。
アイドルに手を出して卒業させ、裏社会に引き込む。いや、この視点は間違っているな。逆だ。逆から見ないと、正しくない。あいつの目線じゃ乙女心は分からない。つまり迫られたのはタカの方か。
スマホが震えた。着信音はアジカンの「Re:Re:」
メール文化が廃れつつあるから、このRe:Reの意味すら分からないガキ共多いんだろうな。曲への理解に関わる非常事態。
「ごめん翼ちゃん、急ぎの電話だから出るね。……もしもし」
俺が何度か電話向こうへ頷くのを彼女は見ていた。それから徐々に楽しそうな声と表情になっていくのを見て、どうして楽しそうなんだろうと思ったに違いない。
「そうか。分かった。ありがとう。すぐに行く」
電話を切って、俺は彼女に視線を戻す。
「キス魔強制わいせつ罪バカ。犯人を見つけた。俺の仲間が、ええと、あれは仲間か?今回は氷永会は仲間か。できれば仲間にしたくないしなりたくないが。とにかく、身柄を確保した。来るか?いや、怖いなら辞めとくか」
「え?もう見つかったのですか?今ここで話をしたばっかりなのに」
「ああ、見つけたと連絡が入った」
見つけたのはリバーサイドではない。キエンは情報収集しかしていない。他のメンバーはほぼ使っていない。つまり、裏の組織。
「驚いただろ。街一番のオーガナイザーは情報網と仲間からの信頼だけは負けないんだ。スピード解決が自慢。俺の手柄かと言うと、それは怪しいけど」
「ええと、どうしよう」
俺は彼女に「一緒に来るか?」ともう一度問い、逡巡し、頷いた。戦う意思を持った目。よし。「ついて来い」と俺は答える。
被害者がさらに被害を受けたのにも関わらず立ち向かう。これだけ強いことはない。よくトラブルで出会う被害者面人間は、他人に懇願するのがセオリー。自ら覚悟を持って闘う決意をする依頼人以上の強さは無い。
喫茶店の目の間に黒い大きな車が止まる。
〉乗始
〉走始
〉走行
〉双翼
〉欲翼
〉白翼
〉到着
白い大きな車がとある空き家に到着。ぞろぞろ降りる。ちなみに氷永会は白い大きな車で、リバーサイドは黒い大きな車。
壁のない、荒れ放題の家。その真ん中に置かれ、椅子に縛られている男がひとりいる。口を塞いでいないので会話はできる。何か叫んでいるが、相手にする意味はない。後ろの紐も頑張って解けるような結びではないから助からないよ。
「よお、アイドルオタク。酷いことをしてくれたな。中学生の女の子だぞ。一生モノの傷だ」
「お、お前に何がわかる!」
「わからないね。二十三歳大学生。国公立、文系。住所は豊平区。調べはついている。諦めろ。ここにいるヤクザとは別部隊だが、情報収集のプロ、超能力者がこっちにはいる。超能力者だから、何でも調べちゃう」
「超能力者?な、何をわけわから無いことを!それより、お前ら誰だよ!サツキちゃんに何をしたんだ!」
「サツキ?」
「茨戸さん。サツキというのは、シロツバサの活動名が数字+
「そうなんだ。そういうの先に教えてくれよ」
「ごめんなさい」
「まあ、いいよ。そうだな、お前も縛られるの辛いだろうから手短に。お前に命令をしたアイドルグループの名前は何だ。複数のグループを同時に推しているファンは多いだろ。お前はシロツバサも、他のアイドルも同時に応援している。そのアイドルからダイレクトメッセージでも来たんじゃないか。窮地のアイドルに〝とどめ〟を刺して私たちを有名にして、みたいな。そんなんで〝とどめ〟になるか分からんが、ガキの発想ならその程度か。お前は直接声をかけられて天にも昇る思いだったろう。くだらない」
黒服が男を囲む。俺がポケットに手を入れて冷めた面して質問を続ける。
「言え。そいつの名前を言え」
「お前に何がわかる!」
俺はこの言葉に腹が立った。声も大きくなり、柔らかな語尾も無くなった。
「うるせぇ!お前のことなんて分かってたまるかよ!お前のことなど、お前のことなんて分かるかよ。分かってたまるか。ああ、理解できないね。理解する必要も、理解する理由もない。誰にも分かってもらえないから、自分だけに向けられた笑顔だと思って理由にしたとかその程度の喜びを自分の中で留めておけない奴に、推しだ、ファンだ、と名乗る資格はない。他の誰かに共感をしてほしいと思った瞬間に、それはもうお前の喜びじゃないんだよ。誰かに良さを押しつけようとするのも、それは好きだという気持ちの表現じゃない!お前の欲求を満たすことに何の意味がある!理解を他人に求めることに何の意味がある!他人に求めるな!アイドルに求められたから、求められた充実感からと言って誰かを気づけて良い理由にはならない!いいから答えろ。教えなかったら今度は俺がこの娘にキスするぞ」
「えっ」
翼ちゃんが小さく驚いた。
女の子の敵はいつの時代も女の子。分かりやすくていい。だからお前などお呼びではない。敵でも味方でもない。視界にすら入っていない。使ったことすら忘れているだろうよ。
「冗談。真に受けるなよ。まあ、本当に何も言わなかったら同意を貰ってちゅーするかもな」
「てめぇ、このロリコンヤクザ!」
また腹が立った。声が大きくなる。ヤクザみたいだ。
「うるせぇ!俺はヤクザじゃねぇ!ロリコンでもねぇ!一緒にするなクソ野郎!……まったく。アイドルをなんだと思ってやがる。真っ当なファンが可哀想だ。ほら、早く言えよ。話してくれないと俺の計画に支障が出る。言わないなら本当に俺がこのサツキにキスをして、それを見せつけてからお前を殺すぞ。いいか!この
「こっ……くっ……この……」
威勢の良い言葉が消えた。それもそうだろう。既にオタク君の顔、三センチの近さに黒服の男が左右から詰め寄っている。その後ろにも背筋を良くしてひとり立っている。最初からここまでずっと一定のリズムでトン、トン、トンと革靴の足踏み。怖い音。
「お前はこれから俺達に利用されるしかない。あまり暴力は好きじゃないんだ。焦らすな。言え」
男は既に漏らしていた。漏らしながらも虚勢を張っていたが、ついに半泣きになって、アイドルのグループ名を口にした。時間かかったな。
「よく言えました。じゃあ、俺達は撤退する。あと、釈放後に余計なことするなよ。余計なこと言うなよ。リアルでもネットでも。創成川リバーサイドと氷永会がバックについているからな。問題解決までは一言一句監視されていると思え。もう死ぬような思いはしたくないだろ。じゃあな」
男を解放、一発腹に蹴りを入れて吹っ飛ばした。無造作に転がって動けなくなった男を、残して車が走り出す。
「茨戸さん。その、あの人はあそこまでする必要があったーー」
「必要だ。内外的に。明日、準備を整えて黒幕アイドルに会いに行く。黒幕ちゃんが駒として利用したファンの末路を見せることで、誰を相手にしているのかを教えるのにあのバカは必要だ。キスは予定外、想定外だったがな。翼ちゃんには悪いが、相手が指したこのドルオタ駒を翼ちゃんを犠牲に取って俺達の持ち駒にし、俺達が使って敵の正体を暴き詰みに使ったことになる。王将の裏。誰にも読めない空白の文字。それが噂の正体で、表面が噂の根源だ。氷永会が簡単に敵を追い詰め、粛清しなかったのは敵の年齢が理由だろう。だから躊躇った。少し前の時代なら全員拉致、家族に脅迫しただろうけど、小学生と中学生の女の子に死ぬような思いをさせるほど鬼じゃ無い。令和だからな。大学生なら容赦なく恐怖を植え付けるだろうけど、十代になったばかりの女の子にはさすがに。でも組に手を出して相手にした事実は、たとえ小学生のガキでも女の子でも許すような集団ではない。だから俺使った。便利屋だからな。便利に使われて報酬をたんまり貰うさ」
「そうですか。そうだったんですか」
「どうよ。これが俺の洞察力。直接組長に聞いたわけじゃないから想像だけどな。ああ、それと翼ちゃん。ひとつあのヒダカにお願いをしてくれ。俺からのお願いのお願いだって言えばすぐに用意するだろうから」
「何をお願いするのですか?」
「時計を買ってもらえ。とびっきり高級なやつをひとつな」