わたしの実家、市之瀬家はこの村で名の通った旧家だ。
ただ広いだけの寒々とした土間のある古い建造物。わたしにとっては懐かしさよりも、忘れ去りたい過去だ。二度と戻ってくることなど考えたことすらない。
子供はわたしを入れて四人。家を継ぐはずの長男は早くに病気で他界し、次男は仕事の関係で関西に住んでいる。
わたしの姉は学校の教師と結婚して現在は広島に在住。末っ子のわたしは逃げるようにして東京の短大に入学後、そのまま今の会社に就職した。もちろん卒業してからは実家に寄りつくことなど一度もなかった。
「因習?ほんなものあるって言ったかん?」
父はすでにボケ老人の様相を呈していた。見ようによっては仙人めいた白い口ひげを生やしているが、実はただの無精者だ。しかも村長とは名ばかりで、村人などはもう数世帯しかこの村に住んでいない。
ヨレヨレの野良着を着て、火もついていないのに
「えぇぇ。お父さん。あるあるって言ってたじゃない。ただあたしの顔が見たかったから口からでまかせ言ったの?」
「おまん、上京してから一度も顔を出さなんだからなあ」
「ひどい。どうすんのよ」
「まあまあ」佑樹が仲を取り持つ。「なにかありませんでしょうか。ちょっとしたことでもいいんです。昔からの言い伝えとか、なんでもいいのですが」
「そうだねえ。まあ、どこにでもある話なら」
「何でしょう?」
「“夜這い”って知ってるけ?」
「もっともポピュラーな因習ですね。女性の寝床に男が忍んで行くやつでしょう?」
「そう。それじゃだめかね」
「だめではないですが・・・・・・。あ、そういえば村の入り口に祠がありましたが、何か因縁めいた話しは残っていませんでしょうか?」
「あんたら・・・・・・まさかあの祠を触ったんじゃあるめえね」
父の目つきが突然変わった。
「と、とんでもない」
「あの祠にだけは近づいたらいかんぞ。あれだけは触っちゃならん」
まずい。わたしはいたたまれなくなって白状することにした。「あのお父さん。実は・・・・・・」
「実はコーラをこぼしちゃいましてね」佑樹が自分の股間に指をあてる。無惨にもチノパンに薄茶色の染みが拡がっていた。「たぶん気になっていらっしゃるかと思って。ははは」
佑樹がわたしに目配せした。
「なんだ。ほうっちゅう柄なのかと思っとったよ。おい加奈子。水とタオルを持ってきてやってくれんか」
加奈子とはわたしの母だ。でも祖母と言ってもいいぐらいに年寄りに見える。
「あ、お構いなく。それではなるべく祠には近づかないようにしますので。遠くから撮影するのはどうでしょう?」
「まあ、それぐれえなら構わんが」
「ありがとうございます。その祠になにかあるんですか?」
「そこまで古い話ではねえ。戦時中の話だ。日本の主要都市はアメリカの集中砲火を浴びるようになって火の海と化してた。この村にも東京や神奈川から疎開してきた女や子供が大勢いた。その中に良家の娘ですず江ちゅう色の白い美人がおってな。村の若え衆は気が気じゃなかったんじゃよ。でもその娘にはすでに将来を誓いあった婚約者がおって、当時の村長も絶対に夜這いできんように注意を払っておったそうじゃ。ところがすず江が外出をしてるのを見たひとりの若者がこっそり待ち伏せをして、草むらの中に引きずり込んじゃったんだのさぁ」
「強姦ですか」
「“おっとい嫁じょ”ちゅう言葉を知ってるかね?」
「おっといよめじょ・・・・・・ですか」
「誘拐婚じゃよ。ひとの許嫁だろうと嫁さんだろうと、自分が気に入った女を無理やり手込めにして嫁さんにしちまうのさ」
「ひどい」わたしは憤慨した。
「当時はそれも認められてたのさ」
「それでどうなったのですか?」
「悲観したすず江はその後姿を消してしまった。じゃが本当のところは、若者がすず江を手込めにしようとした時に舌を咬みきって死んだとも言われておる。そしてその遺体を男が今は使っていない古い井戸にぶちゃって隠したとも言われてる」
「ますますひどい」わたしはあきれた。
「ぶちゃって?」と佑樹。
「投げ捨てたってことです」この村では通訳も必要だ。
「どっちにしても」父はお茶をぐびっと飲んだ。「それからこの村に災いが絶えなくなった」
「どのようなことが起きたのですか?」
「飢饉がつづいた。子供が産まれなくなった。病気やけが人が大勢出た。怪談めいた話では夜道を歩くとどこからともなく女の泣き声が聞こえてくるとか、川遊びをしていた子供が白い手に足を引っ張られて溺れかけたり・・・・・・」
「あの」今度はカメラを回していた沢村さんが訊ねた。「その男はどうなったんです?」
父は坊主頭の沢村さんを不思議そうに眺めながら語った。
「ああ。崖から足を踏み外して谷底に落ちたそうだ。運悪く、尖った枝が肛門から口に突き抜けてたそうだ。そのあと動物にでも食われたんずら。それはそれはむごたらしい死体だったそうだ。その後あの祠はすず江の魂を鎮めるために建てられたのだそうだ。だからあの祠にだけは近づいたらなんねえ。祠の封印が解けたらえれえことになるぞ。それが村に伝わる言い伝えじゃ。祠にさえ近づかんけりゃ何をしてもかまわんよ」
「はあ。それは壮絶な逸話ですね。いいですね。番組ではそれをピックアップすることにします。その事件の詳細を知る方法はありませんでしょうか?」
「村に来る途中に町があったずら。あそこの図書館に郷土史資料館が併設されておるから、そこに昔の新聞や資料があるかもしれん。行ってみるといい」
「よくぞこんな山奥までよく来なすったねぇ。」母がお茶のおかわりを持って来た。「さぞやお疲れでしょう?奈津子。今日は泊まってけるんでしょう?」
「いえ。帰ってすぐに仕事がありますので」佑樹が頭を下げた。
「まあそうおっしゃらずに。奈津子がボーイフレンドを連れてくるなんて初めてなんさよう」
母はすっかり佑樹のことが気に入ったようだ。女は歳を取ってもイケメンには弱いものらしい。
「だめだよお母さん。マスメディアの仕事っていうのは時間勝負なんだから」
「そうかい」母はちょっとさびしそうな顔をする。
「またすぐに撮影で戻ってくるから」
「それじゃあうちの畑で獲れた野菜をうんと持っていけ」これで父は貫禄を見せたつもりなのだ。
わたしたちは村を後にした。あたりはすっかり暗くなっていた。山道を抜けたところの小さな町に立ち寄り、蕎麦屋で軽く夕飯を済ませる。
途中で図書館の位置を確認する。テレビ関係の車だからだろうか。すれ違う人が物めずらしそうにわたしたちのワンボックスを振り返る。芸能人でも乗っていると思われたのかもしれない。
「運転かわろうか?」
佑樹が沢村さんに言う。
「いいえだいじょうぶ。それにしても昔の色恋ってのは激しいもんですね。そんなのが許されるなんて。いまだったら完全な性犯罪だ」
ステアリングを操作しながら沢村さんが吐き捨てるように言った。
車は町を通り抜ける。近くを通る高速道路の入り口まではさびしい一本道だ。
しばらく走ると、背後から赤色灯をつけた一台の乗用車のヘッドライトが猛スピードで近づいて来た。
沢村さんはうるさそうにチラリとルームミラーを確認する。「なんだお巡りさんかよ」
「スピード違反か?」佑樹が振り向く。
「スピードなんか出してねえし。飲食店から出てきたから飲酒運転と思われたのかもな」
「前の車。路肩に停まりなさい」後ろから拡声器の声が迫ってくる。
「はいはい。なんだってんだろう?」
わたしたちのワンボックスは暗い路肩に寄せて停車した。白と黒のツートンカラーのパトカーもそれに続いて背後にピッタリと寄せて停まった。
二本の懐中電灯の明かりがゆっくりとわたしたちに近づいてきた。そのうちのひとつは素早く車の反対側に回って周囲を照らし出した。
「なっちゃん」沢村さんがわたしに話しかけてきた。「動画を撮っておいてくれ。なにかのときの証拠になる」
わたしは肯いてジーンズの尻ポケットから携帯電話を引き抜いた。警官から見えないように膝の上で起動する。カメラのアイコンをクリック。ムービーが起動した。
沢村さんがニッコリ笑ってウインドウを下げた。「ご苦労さまですお巡りさん。どうかしたんですか?」
「免許証を拝見させてください」怪訝そうな顔をした中年の警官が言った。交通課の白いヘルメットを被っている。
沢村さんは抵抗することもなく免許証をさし出した。「スピードとかは出してませんでしたけどね」
「東京からですか。この車は・・・・・・テレビの撮影かなにかですか」ボディに印刷されている会社名を見たのだろう。「じつは通行人から通報がありまして」
「通報?」
「ええ。車の屋根の上に白い着物を着た女のひとを乗せた車が走っていると」
「はあ?」
わたしたちは顔を見合わせた。
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「我々もしばらくおたくの車の後を追尾していたんですが」
「それで?」
「たしかに白い何かが車の屋根に這いつくばっていたようにみえました。何かの撮影ではないですよね?」
「そんな馬鹿な」
もうひとりの若い警察官がしゃがみこんで車の下を照らしている。「見当たりません」
「ちょっと後ろのハッチバックを開けてもらえませんか?」
それから三十分ほど押し問答がつづいた。言いがかりもいいところだ。どうやらわたしとその女との共通点が見当たらなかったのが幸いして、ようやくわたしたちは解放された。
わたしたち三人はぐったりして都内に戻って来た。