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第4話『絶望の淵、仮面の魔物』

 冒険者の男は、迷宮の奥で身を震わせていた。


 湿り気を帯びた空気が肺を締め付け、苔むした岩壁の匂いと血の鉄臭が鼻をつく。


 仲間たちの断末魔がまだ耳に残っている。

 立て続けに、洞窟の底から響く悲鳴が、男の心を容赦なく抉った。


 「 ᛚ……ᛜᛞᛟ (ゥグ……ッ、ハァ、ハァッ!)」


 腹部を押さえる手からは、赤い血がにじみ出し、地面にぽたぽたと滴り落ちる。

 深い切り傷がズキズキとうずき、歯を食いしばった。

 恐怖と痛みに顔が歪む。


 「 ᛋᛏ…ᛒᛖΘΣ! (くそっ……誰かっ、いないのかっ!)」


 だが、返ってくるのは冷たく重い沈黙だけ。

 震える手が力を失い、男は膝を折る。


 視線を落とすと、散らばる肉片が目に入った——ついさっきまで共に戦っていた仲間たちの無残な残骸だ。


 「ᚲᚷ…ᚹ…ᚺᚾ……  (ぁ……あぁ……そんな……)」


 男は地べたに崩れ落ち、頭を抱える。

 嗚咽が漏れ、震える声が虚しく響く。


 「ϜϞϠ。……Ϝ… (ぅえ゙……ぅぅ……死にたくねぇ゛……っ)」


 その時、暗闇から重々しい足音が近づいてきた。

 金属同士がこすれる甲高い音とともに、鎧を纏った異形の影が浮かび上がった。


 ガーディアン——迷宮の守護者とでも呼ぶべきその存在は、全身を白銀の鎧で覆っている。

 兜の隙間から覗く眼光がこちらを見て離さない。


 「 𐍙𐍚!𐍛𐍜𐍝𐍞𐍟! (ヒぃッ!……く、くるな!)」


 男は這うように後ずさるが、ガーディアンは無慈悲に一歩、また一歩と近づく。

 涙が頬を濡らし、恐怖が全身を縛りつけた。


 「 ᚢᚦᚨᚱ!ᚲᚷ……ᚺᚾ! (よ、よせ! たすげ……っ、ぅグっ!)」


 巨腕が男の頭を鷲掴みにし、岩壁に叩きつける。


 頭蓋がみしりと軋み、眼球が圧迫される。


 激痛の最中さなか、男の脳裏に妻と娘の笑顔が浮かんだ。

 村の小さな家で待つ、愛する二人。


 ここで死ぬわけにはいかない。


  自らを奮い立たせ、男は最後の力を振り絞り詠唱する。


 ——急げ、間に合えッッ


 この場を凌ぐのに必要な魔法。

 痛覚遮断、肉体強化、斬撃強化。

 震える声にもかかわらず、呪文の効果は即座に発動した。


 痛みが薄れ、身体が熱を帯び、腕に力がみなぎる。

 男は自由な方の手で剣を握り、ガーディアンの首を狙って渾身の一撃を放つ。


 が——。


 刃が弾かれ、ひびが入る。


「 ΔΦΘΣ!? (なっ!?)」


 刃は無惨に折れ、破片が地面に散らばった。


 魔法の力もガーディアンには通じなかった。


 頭を締め付ける力は増すばかりで、眼球が今にも飛び出しそうな痛みが男をさいなむ。


——グ…………ァ…………ガガ…グァッ


 絶叫が迷宮に響くが、ガーディアンの眼光は揺らがない。

 男の抵抗はむなしく、頭蓋が限界を迎えようとしたその瞬間——。


 「オラッ!」


 朦朧もうろうとする意識の中で、男は一瞬、黒い影が動くのを見た——足が、雷霆らいていの如く振り上げられる。


 ガキンッ、という鈍い音とともにガーディアンの腕が突然、不自然に跳ね上がった。


 鋼の腕が手首から複雑にひしゃげ、ねじれる。


 男の頭を締め付けていた力が一瞬で消え、男は地面に崩れ落ち、解放された。


 「 ༠༡༢-……༣༤༥…… (ゲホッ、ゲホッ………、な、なにが……)」


 咳き込みながら顔を上げる。


 関節から光を放つ奇怪な外殻。

 その上にボロボロの黒い布を羽織はおっている。

 顔は甲冑、いや、面のようなものでおおわれている。


 人というより——魔物モンスターだ。


 「おい、デカブツ」


 聞いたことのない言語。

 低く、殺意に満ちているようだ。


 今度は指をクイクイと曲げている。


「かかってこいよ」


 男にはその言葉の意味は分からなかった。

 ただ、目の前の黒い魔物が、ガーディアンの腕を粉砕した事実は変わらない


 救いか、新たな脅威か——男の意識は、痛みと混乱の中で揺れ動いていた。


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