掲示板の片隅に貼られた羊皮紙に、思わず目を奪われた。
そこには日本語——前世の言語が書かれていた。
ギルド内の喧騒が一瞬遠ざかり、目の前の文字だけが鮮明に浮かぶ。
「この文字が読める者へ…」
思わず呟き、羊皮紙に指を這わせる。
リヴェア語の曲線的な文字とはまるで異なる、漢字とひらがなの直線的な文。
まさか、この世界で日本語を見るとは、夢にも思わなかった。
心臓がドクドクと脈打つ。
「………霧鴉の酒場」
バクラダに着いたばかりで土地勘はないが、人づてに聞けば見つかるはずだ。
『月灯りの席』という言葉が頭にこびりつく。
何かの暗号?
それともただの詩的な表現か?
背後でギルドのざわめきが再び耳に届く。
剣を研ぐ音、冒険者の豪快な笑い声、カウンターから響く行商人たちの掛け合い——。
それでも頭の中は、この張り紙のことでいっぱいだった。
会ってみたい。
自分と同じ前世の記憶を持つ者がいるかもしれない。
転生してから十数年、両親にもその秘密を隠してきた。
こんな張り紙を見れば、期待せずにはいられない。
文面から察するに、相手もまた、転生者と会いたがっている。
依頼主が何を求め、どんな過去を背負ってきたのか——知りたい衝動が抑えられない。
他の冒険者に感づかれないよう、その張り紙を剥がし懐にしまい、素早く掲示板を離れる。
「シルバ様! 掲示板はどうでした? 何か気になる依頼見つけました?」
カウンターの奥から戻ってきたアリアさんが、明るい声で話しかけてくる。
その無垢な笑顔に一瞬ドキリとするが、すぐに平静を装う。
「…ええ、ちょうどさっき。あの、適性試験のことですが——」
「アリア君!ちょ、ちょっと、こっち来て——!」
言葉を続けようとした瞬間、ギルドの奥から革鎧に身を包んだ中年男が彼女を手招きした。
「もう、今、対応中なのですが。ごめんなさい、シルバ様」
「いや、気にしないで。どうぞ」
彼女は小さく頷き、カウンターの裏の小部屋に急いで入っていく。
二人の声が、扉の隙間から漏れ聞こえてきた。
「……
男の声は低く、抑えた口調で話す。
「そんな!? ……いったいどこのパーティーが!?」
アリアさんの声が、驚きでわずかに上ずる。
「それが、不明なんだ。攻略者たちの情報が一切ない。ギルド長が直々に調査を命じた。登録手続きと適性試験は一旦中止だ。書類を急いで王都支部に送ってくれ」
男は早口でまくし立て、羊皮紙の束を押し付ける音が聞こえた。
彼女は慌てた様子で応じる。
「わ、わかりました!」
小部屋から飛び出してきた彼女は、書類を抱えてカウンターに戻る。
こちらに気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「シルバ様、申し訳ありません! 登録手続きはほぼ終わっていますが、適性試験は後日になります! 緊急対応で…本当にごめんなさい!」
アリアさんはもう一度頭を下げ、書類を抱えてカウンターの奥へ小走りで消えた。
禁域?
攻略者不明?
「………………」
今の自分には関係のない話だ。
……酒場を探すか。
適性試験が中止になったのは、むしろ好都合だ。
この張り紙の謎を追う時間ができた。
ギルドの外では、夕暮れがバクラダを茜色に染めていた。
尖塔の影が石畳に伸び、風に揺れる旗がカサカサと音を立てる。
革袋を握りしめ、西端の路地裏へ歩き出した。
道中、露店に立ち寄って酒場の場所を聞いて回ったが、タダじゃ教えねえ」と商魂たくましい店主たちに交渉を持ちかけられ、装備の新調やアイテム補充を強いられる羽目になった。
さすがは
バクラダの西端、細い路地裏にたどり着いたのは、月が空に高く昇る頃だった。
路地の奥で、
はぁ、やっと見つけた……。
『霧鴉の酒場』——木の板に鴉のシルエットと霧の模様が刻まれている。
ここに来るまで、皆一様に「本気であそこに行くのか?」といった顔をされた。
なんというか……あまり評判の良くない酒場らしい。
古びた扉を開けると、ギィッと軋む。
店内に足を踏み入れる。
意外にも店内は静かだった。
ギルドの喧騒とは対照的に、客はまばら。
カウンターの隅で酒を飲む老剣士、壁際でカードゲームに興じる軽装の男たちが2人。
『月灯りの席』………?
それが何を指しているのかすぐに分かった。
酒場の窓は少なく、月の光が差し込む場所は限られている。
奥の隅に、窓から漏れる月光が一つの席だけを淡く照らす場所があった。
その席に、黒いフードを深くかぶった人物が座っている。
「あ、あの——」
近づくと、その人物はトントンと、テーブルをたたいた。
テーブルの上には、小さい紙片が。
そこに日本語で、こう書かれていた。
『待つは転生に縁がある者のみ。
なるほど、ここでも選別してるのか。
「……シルバです」
名を告げ、フードの人物の前に腰を下ろした。
そして、ギルドの掲示板から抜き取った張り紙を机上に置く。
フードの下から、鋭い目。
「シルバ、か。……いい名だ」
低く、渋い声。
その口調には微かな日本語訛りのイントネーションがあった。
「あなたも、その…転生者で?」
自分の問いに、フードの人物は軽く笑った。
そして、ゆっくりとフードを外す。
そこには、黒髪を短く切り揃えた若い男。
おそらく30歳前後。
目の下にある深いクマと無精髭が、年齢以上の存在感を放っていた。
「ああ。この世界じゃアランって名で通ってる。ようこそ、兄弟」
心臓が再び、高鳴った。