こつん。
————こつん。
————こつん。
真夜中に小さく響くその音はいつもの合図で、無明はぱちっと仮面の奥の瞼を開くと、身体を起こし近くにあった衣を纏って寝床を後にする。
こそこそと庭に出て、不規則に騒がしく鳴いている蛙の声を聴きながら池の前を通り過ぎると、低い塀の天辺から顔を覗かせた顔馴染みを発見し、大きく手を振った。
月明かりが暗い夜の闇を照らす中、しーっと人差し指を立てて慌てるその少年は、同い年だが生まれた月がふた月だけ早い三番目の公子、竜虎である。
見るからに神経質そうな彼は、無明とは対照的な少年だった。銀色の筒状の髪留めでまとめてお団子にし、長めの前髪は几帳面に丁度真ん中で分けられている。形の良い額と整った顔立ちがよりその秀麗さを際立たせており、金虎の一族の特徴である紫苑色の眼は切れ長で凛々しいが優しさも垣間見えた。
低い塀をひょいと片手を付いて乗り越え、地面に着地した無明は、あれ? と首を傾げて珍しいものでも見るように腰を屈めた。
「璃琳お嬢様、こんな夜更けにお散歩ですか?」
竜虎とよく似た、けれどもそれよりも大きな瞳の少女に対し、わざとらしく敬語を使い丁寧にお辞儀をして様子を窺う。綺麗に整えられた黒髪は肩の辺りまであり、そのひと房を括って飾られた薄紫の花が付いた髪飾りがとても良く似合っている。
少女は右手に灯を、左手は兄である竜虎の衣の袖を遠慮なく強く掴み、きっと睨むように無明を見上げた。
彼女はふたりの三つ年下の十二歳。竜虎と同じ母、つまり姜燈夫人の子で、無明の義妹でもある。
「なにがお散歩ですか? よっ! そんなの見ればわかるでっ······もぐっ」
「璃琳、声が大きいっ」
「ふたりとも大きいよ~あはは」
けらけらと笑って無明はふたりに教えてやるがふたりは同時にこちらを睨んで牽制してくる。金虎の一族が纏う、袖と裾に朱と金の糸で複雑な紋様が描かれた白い衣を羽織っている竜虎と、薄桃色の外出用の動きやすい上衣下裳を纏った璃琳。
無明はといえば、袖や裾の紋様は竜虎のそれと同じだが黒い衣を纏っている。一族の直系や親族が纏う白に対して黒の衣は従者の纏う色だった。
「私はふたりの監視役よ。明日は奉納祭だし、なにかあったら大変でしょ?」
今度は声を潜めて得意げに見上げてくる。それはこっちの台詞だ、と竜虎は肩を竦めた。いつものように外にこっそり出ようとした所を運悪く見つかってしまったのだ。
璃琳は兄たちがやっていることを知っており、時折気分次第でついてくることがあった。兄が怪我でもしたらとか、痴れ者と一緒で心配だからというのが本音だが、本人たちの前では絶対言わないと決めている。
「で? 今夜はどうする? 北東の外れに現れる徘徊する殭屍? 渓谷の吊り橋を通せんぼする亡霊?」
竜虎は無明の肩に手を置いて、もう片方の手で懐から二つの文を取り出す。璃琳が持つ灯に照らされ三人の顔は仄かに橙色に染まる。
姜燈夫人がこの光景を見たら、悲鳴を上げて気絶するか無明の足を切り落とそうとするだろう。夫人の所業はふたりとも知っているが、無明がこういう性格なので考えても無駄という結論である。
ただ無明がいなければ、真夜中の妖者退治を考えることもなかったというのは事実。
三人には兄があとふたりいる。ひとりは母違いの一番上の兄である虎珀。もうひとりは姜燈夫人の最初の息子である虎宇であるが、竜虎と璃琳はこの虎宇が死ぬほど嫌いであった。
すぐに怒り手を上げるし、自分より下の者に対しての態度が最悪だ。それを黙認するどころか当たり前であるかのように肯定する母にも、その時ばかりは腹が立った。
虎宇の性格とは真逆の虎珀のことは好きで、実の兄よりも慕っており、彼の住む邸に入り浸ることもあった。無明に対しては、幼い頃は母に言われるまま酷い扱いをするのが当然だと思っていたが、ある日それは間違いだと気付いた。
なぜならこの痴れ者と呼ばれ続けている無明は、皆が口々に言うような痴れ者ではなかったからだ。