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1-23 藍歌の不安



 夕方になった頃、頬に触れられた冷たい手に気付いて目が覚める。


「········母上、もう起きても平気なの?」


 困ったような顔で藍歌らんかは見下ろしてくる。


「ええ。でも今度はあなたがそんな状態だったから、驚いてしまったわ」


 自分の寝台の下で倒れていた無明むみょうの姿を見た時、心臓が止まるかと思った。目が覚めて最初に視界に写った我が子は、顔色が悪くとても苦しそうに息をしていたのだ。だが今の力が抜けた自分の腕では寝台に運ぶこともできず、額の汗を拭ってやることくらいしかできなかった。


「まだ起き上がらない方がいいわ、」


 無理に起き上がろうとしている無明むみょうの肩を抱いて優しく諭すが、ふるふると首を振ってなんとか身体を起こす。


「大丈夫。さっきよりはずっと楽····って、あれ?」


 なんとか身体に力を入れて起き上がろうとしたその時、身体に掛けられていたのだろう薄青の衣が、膝の上にはらりと落ちた。毒が回っていたはずの身体がかなり楽になっている。薄青の衣を軽く握って、無明むみょう白笶びゃくやが毒の処置をしてくれたのだと察する。


(目が覚めるまで、ここにいてくれれば良かったのに。奉納祭の御礼もまだ言ってない····)


 外の様子を見れば夕方になっていた。どうやらあれからかなりの時間、ここで眠っていたようだ。


「母上、父上からの使いはまだ来ていないよね?」


「なにかあるの?」


 こく、と頷き、藍歌らんかが倒れた後に起こったことをすべて話す。奉納舞が上手くいったことや、その後のことも。


「では、あの方がこんな企みを? いったい何のために、こんな、」


 正直、あまり関わりのない人物の名前が出たことに、藍歌らんかも腑に落ちない表情をしていた。


「それはもちろん、本人の口から、宗主の前できちんと話してもらうよ」


 どんな言い訳をしようが、絶対に言い逃れができないようにする。そして正当な罰を下してもらうことが、今回の件のけじめなのだ。


「母上の方こそ、まだ身体を休めていた方がいい。俺は大丈夫だから、」


 ね、といつもの無邪気な笑みを浮かべ寝台に促す。仕方なく、藍歌らんかは言われるがままに元の場所へ戻った。


「失礼します。宗主より公子様にお呼びがかかりました。準備が出来ましたら、お声掛けください」


 外から聞こえてくる声に、うん、わかった! と無明むみょうは答える。衣裳を着替えるのも面倒なので、髪の毛だけいつものように後ろで一本に括る。赤い紐が編み込まれたままの髪も一緒に括っているため、それはそれで女子おなごのような姿だったが特に気にする様子もない。


「じゃあ、行ってくる」


「いってらっしゃい。でも、無理はだめよ、」


 生まれた時に見たその瞳は、それ以来仮面の奥に隠れてよく見えなかった。けれども今はすぐ目の前にあって、なんだか懐かしい気持ちになった。手を伸ばしてもう一度頬に触れる。こんな風にしっかり触れてやることも、ずっとできなかったから。


「母上の手は、冷たくて気持ちいいね」


 ふっと目元を細め、どこまでも甘えるように笑って、無明むみょうは頷く。


 その細身の後ろ姿を見送って、静かに祈る。なんだか無明むみょうが遠くに行ってしまうような不思議な感覚があった。


 気のせいであればいい、と瞼を閉じ、藍歌らんかは再び眠りに落ちた。




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