ライナさんが50匹ほど屠り、とっぷりと日が暮れ落ちた頃、ゴブリンの追加がぴたりと止まった。ようやく出尽くしたかに思われたが。
森の中に見える人型の影。まだ一匹残っている。
真打登場とばかりに、まさかホブゴブリンでも出てくるのかと身構えたけれど、サイズはライナさんの足下に転がっている骸と変わらない。
他のゴブリンと違って理性が残っているのか、臆病なのか、注意深いのか。
なんにせよ、勢いのままに飛び掛かってくるようなことはない。
しかし、隠れているつもりもないようで、ゆっくりと森の中から歩み出てくる。
手ぶらだ。白旗でも上げるつもりなのか?
ともあれ、非武装のゴブリン一匹だけなら、もう隠れている必要はない。
俺と村の男衆は、低くしていた姿勢を戻し、ライナさんの傍に集まろうとした。
「来るなッ!!」
それを、ライナさんがぴしゃりと制止する。
こちらを一瞥すらせず、近づいてくるゴブリンから一瞬も目を離そうとしない。
つぅ……と、ライナさんの頬に汗が一筋流れていくのが見えた。
奴一匹に向けられているライナさんの戦意が、これまでとは比較にならない。
なんだ? ただのゴブリンじゃないのか?
「ライナさん?」
「クロイ、出てくるな! 皆をもっとさがらせろ! あれは《ネームド》だ!」
「ネームド?」
知っているぞ。
ライナさんの足を引っ張るまいと、冒険者ギルドで借りて読み耽った指南書に、確かそんな単語が出てきた。数千、数万分の一とも言われる極めて稀有な確率で、魔物の中から突然変異したかのように強力な個体が
ネームドの出現が確認されれば、すぐさま冒険者ギルドに高額報酬が約束された討伐クエストが張り出されるか、より緊急を要するなら騎士団が派遣される。
だが、その発見情報は冒険者パーティーが不意にネームドと遭遇し、壊滅寸前に追いやられた状態でもたらされることがほとんどだという。
それほどまでに、ネームドは突然現れる。
「あれが……」
ネームドと呼ばれる所以は、
だけど、俺には、
その話は事実だ。
ネームドを見分ける方法は限られているが、特徴は共通している。
炎を凝縮したかのような深紅の瞳。
なるほど、群れを統率できていないわけだ。
こうして威容をはっきり確認できる間近で相対したことでよくわかる。
ゴブリンの形をしていても、あれはまったく別の生き物だと。
ネームドゴブリンが、おもむろに右手を顔の高さに掲げた。
その手の中で、火の粉が渦を巻いていく。
それは徐々に大きく、大きくなり、バスケットボール大に膨れ上がった炎の球が形成されていった。焦げつくような熱気が離れていても伝わってくる。
「ライナさん!」
「……魔法使いタイプか」
——魔法。
前の世界では存在しなかった、魔力という概念を媒体にした超常現象だ。
この世界に来て初めて見る。
人間だと小さな種火を作ったり、そよ風を吹かせたりするのが精々だというが、それだって、ごく限られた才ある者にしかできない。
当然、攻撃手段として使えるような代物じゃないから、エルフ族でもない限り、本物の魔法使いを名乗る者なんていないと、冒険者ギルドでローブを纏っていた、なんちゃって魔法使いの人に聞いた。
本物が目の前に……。
というか、なんで術者本人は熱がらないんだ? 都合良すぎるだろ。
などと感心している場合じゃない。
あの魔法で狙われているのは愛する女性。未来の嫁だ。ライナさんの肌に火傷のひとつでもつけやがったら絶対に許さない。
発動させるための中二的な口上は無いのか、ネームドゴブリンは今この瞬間にも火球を撃ち出そうとしている。
ライナさんとて、魔法使いと戦うのは慣れていないはずだ。
下手すりゃ初めてかもしれない。
単純な戦力では勝っていても、思いがけない攻撃手段を用いられたら。
起こり得る最悪を予想している間に、敵が先に動いてしまった。
「GAYAAU!!」
「くっ、何を——!?」
空いていた左手で、すくい上げた水を浴びせるような挙動。
ライナさんがわずかに怯んだが、今のは攻撃ではない。
熱エネルギーを濃縮した右手の火球と異なり、風が吹いただけで掻き消えそうな薄い炎で、自身とライナさんの間に目くらましのカーテンを作ったのだ。
俺の位置からは確認できているが、ライナさんには相手が見えていない。
そんな状態で、敵は次の行動に移ろうとしている。
それを見た瞬間、俺は飛び出していた。
「ク、クロイ!?」
ライナさんが驚き、俺に意識が向いてしまう。
間に合え。
伸ばした手がライナさんに届くかどうかというところで、炎のカーテンを火球が突き破ってきた。ライナさんに直撃するコースだ。
「——がッ!!」
かろうじて、ライナさんを突き飛ばし、庇うことには成功した。
しかし、炎の剛速球が、俺の背を焼きながら抉っていった。
おそらくは……致命傷。
俺を削っていった火球が後方の地面に着弾し、マグマが噴火したみたいに灼熱の火柱を立てて爆散した。まともに当たっていたら、骨も残らない威力だ。
ライナさんが慌てて駆け寄り、腹這いに倒れ込んだ俺の傍で膝をついた。
「クロイ、無茶をするな!」
「身を徹して妻を守るのは、夫として当然です。ライナさんが無事でよかった」
決まった。
「いや、今のなら普通に避けられたが」
「しゃしゃり出てすみませんでした」
穴があったら入りたい。
「俺はもうダメです……。最期に、ライナさんは俺のことをどう思っているのか、正直な気持ちを教えてもらえませんか?」
「わりと本気で余計な手間を増やすなと思っている」
「ほんとすみませんでした」
これ、人違いで刺された時より後悔しそうな死に方だな。
「では、死ぬ前に一度でいいです。竜司と呼んでもらえませんか?」
「馬鹿なことを言っているんじゃない。革鎧のおかげで、怪我らしい怪我も無い。少し首のあたりを火傷しているだけだ」
「マ?」
恥ずかしさで悶死しそう。このまま第二射を喰らって火葬されてしまいたい。
自分の発言を思い返して懊悩していると、ライナさんが細い声で「だが……」と続けてきた。どことなく含羞の色を帯びた様子に、ドキっとする。
「クロイは、本当に私なんかのために体を張れるんだな」
「?? 私なんかって言うか、ライナさん以外のためになんて張れませんよ?」
レンゲスだったら当然見捨てるとして、ギルドでいろいろと世話を焼いてくれたラゴスあたりでも、「ラゴスーーー!!」と叫んで直撃を見守っていたはずだ。
「…………おかしな奴だ」
あれ? なんか結構いい雰囲気?
竜司呼びリクエスト、もう一回いっちゃう?
と欲をかきそうになったが、それを許さない者がいた。
「GEGYAGAAA……!!」
炎のカーテンが開かれていく。
必殺の一撃をかわされてしまったからなのか、俺たちから醸し出されるリア充の空気に我慢ならなかったのか、汚く唸ったネームドゴブリンが両手を上げた。
降伏のポーズなんかじゃない。
掌を中心とした空気が熱により揺らぐ。今度は二発同時に撃つ気だ。
「ライナさん、俺に構わず!」
「もちろんだ!」
清々しい返事だった。
そこは「で、でも」「いいから!」みたいなやり取りがあってもよかったが。
ライナさんの判断は早かった。
異世界で『弾丸のように』と例えても伝わらないだろうが、シェイプシフターを沈めた時と同様、撃ち出された銃弾の如き初速で、10メートルからあった距離が瞬きの間に半分以下になる。
「GYAGYA!?」
相手にとっても予想外のスピードだったらしく、まだソフトボールくらいにしか膨れていなかった火球をふたつとも、慌ててライナさんに撃ち出した。
こちらも
威力が落ちるとはいえ、あと二歩詰めれば剣が届くという近距離。そんな目前で発射された球をかわすなんて芸当、ライナさんでも不可能だ。
だが、それでもライナさんは、さらに一歩を前に踏み出した。
この刹那に、俺は三度も驚かされることになる。
ライナさんの持つ鉄剣の長さは1メートル弱。あれで2キロくらいある。
一刀ずつ重い攻撃を繰り出すならわかるが、彼女はまるで枝でも振るうように、
ヒュヒュン!
と。
打ち下ろしと打ち上げをノータイムで繰り出し、V字を描いた。
かわさず、
風の隙間を通すような軽い連撃は、放たれた火球二個ともを両断してしまう。
形の崩れた炎の断片は本来の威力を失い、見当違いの所へ飛んでいった。
これで驚きふたつ。
最後のひとつは言うまでもない。
「ライナさん、マジかっけぇ……」
強すぎる。美しすぎる。
はらはらと赤い花びらのように舞い散る火の粉が、ライナさんを幻想的に飾る。
一人の例外もなく、俺を含めたギャラリーは彼女の雄姿に釘付けだ。
そして、
これで完全に敵は剣の間合いに飲み込まれた。
火球を斬って振り上げた剣は、そのまま次なる狙いを既に定めている。
「命、もらい受ける」
「GE、GYA……!!」
一閃。
ネームドゴブリンの右肩から左腿にかけて袈裟斬りに刃が走った。
「やったか!?」
俺の口から思わず出た一言。言ってすぐに「あ」と気づく。
数多の創作物に登場し、即時回収されることで有名なフラグを立ててしまった。
だけど、さすがに大丈夫だろう。
胴体を一刀両断されて死なない生き物なんて、いるわけがない。
……って、これもフラグっぽいな。
え?
錯覚……じゃない。ネームドゴブリンの輪郭がぼやけた。
真っ二つにされたにもかかわらず、身体は地面に落ちることなく、霞のように、砂山が風に崩されるように、さらさらと闇夜へと溶けていく。
さらには霞が、今度は霧となって辺りを覆い、視界を悪くしていった。
フラグ回収班が優秀すぎる。これも魔法なのか?
ライナさんの剣に新しい血がついていないところを見ても、この魔法は斬られたことによる退避が目的じゃない。まだ敵は五体満足で殺意を保っている。
まずい。霧と闇に隠れ潜み、不意をつくつもりか。
卑怯だぞ。出てこい。
生きるか死ぬかの戦いで卑怯もクソもないと思いつつも、そう喚こうとするが。
は?
え?
それを見た瞬間、罵倒が胃の中に落ち、小腸のあたりまで引っ込んでしまった。
霧が晴れ、呼びつけるまでもなく、再び奴は姿を現した。
ただし、一匹だけではなく。
「いや……いやいや。……なんでだよ」
雑魚ゴブリンなら、ライナさんにとって物の数ではないが。
現れた奴らは、どいつもこいつもネームドと同じ赤い目をギラギラさせていた。