「すご……っ」
その一言が、口から自然とこぼれた。
山を越え、川沿いを抜けて辿り着いたのは、三千坪の敷地に、伝統ある木造の館。
名門・神代学園の修学旅行先は、星五つの老舗温泉旅館『花霞(はながすみ)』だった。
「うわぁ、すごい旅館だね!」
「めちゃ広いじゃん! なにこれヤバくない!?」
クラスメイトたちが歓声を上げる中、俺は周囲を見渡した。
ヒノキ造りの渡り廊下。手入れの行き届いた庭園。川のせせらぎに混じって、鳥の声すら聞こえる。
……すげぇ。今まで行ったどの旅行とも、まるで格が違う。
「ふふ、ユウトくん。驚いた?」
横から笑いかけてきたのは、生徒会長の鏡ヶ原つかさだった。
制服の上から旅行用の薄手の上着を羽織り、髪を緩く結っている。
いつもより柔らかく見えるその表情に、ドキリとした。
「会長が手配したの?」
「正確には、生徒会の伝統よ。毎年、神代学園の修学旅行は“学園を象徴するような品格のある場所”で行うって」
つかさは、少し得意げに笑った。
「だから、楽しんでね。今日だけは、生徒会長じゃなくて、“ただの女の子”でいたいから」
その言葉に、俺は思わず言葉を失った。
つかさの目が、普段よりずっと近く感じた気がした。
◆◆◆
夕方。
チェックインを済ませ、部屋に案内されたあと、自由時間。
「ユウト先輩っ! 温泉、一緒に行きませんか♡」
部屋を訪ねてきたのは、後輩の黒羽ことのだった。
「いや、混浴じゃないし……」
「男子風呂の前で待ってますからっ。着替え、見張ってますねっ♡」
「いや、それ怖いから!!」
無理やり脱衣所の前まで連れてこられた俺は、諦めて風呂へ向かう。
「はぁ〜……最高……」
檜の香りに包まれた露天風呂。
ちょうど暮れなずむ時間帯で、空が茜色に染まっている。
湯に浸かりながらぼんやりと空を見上げていると……
「……ユウトくん?」
その声は、振り向くまでもなかった。
「氷室……? いやちょっと待て!? お前、女子のはずだよな!?」
「……こっちの方が、空が綺麗だったから」
彼女はタオルを一枚だけ羽織り、湯の淵に腰を下ろす。
「……でも、怒るよね」
「そりゃあもう。ていうか、普通に捕まる案件だろ」
「そっか……でも、捕まってもいいくらいには、ユウトくんが好き、なんだと思う」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「うち、恋とか、よくわからないけど。……でも、お風呂って不思議。言えないこと、言いたくなるから」
彼女の横顔が、湯けむりに溶けていくように揺らいで見えた。
「……ありがとう。でも、もう出ような? 風邪引く前に」
「うん」
彼女はそっと立ち上がり、俺に背を向けて歩き出す。
その小さな背中を見送りながら、俺は思う。
この旅行で、俺は何人の“好き”に向き合うんだろう。
夜。
風呂上がりの廊下で風に当たっていると、浴衣姿のつかさが、手に瓶の牛乳を二本持って現れた。
「はい。一本、あげる」
「お、気が利くね。ありがとう」
ふたりで縁側に並び、牛乳を飲み干す。
「ねぇ、ユウトくん」
「ん?」
「……私さ。ユウトくんのこと、もっと知りたいなって思ってるの。普通のこと、たとえば……好きな映画とか、家族の話とか。こうしてただ、おしゃべりするだけでも、楽しくて」
そう言って、つかさは笑う。
「だから、まだ答えは要らないけど。いつか、私を“選んで”もらえるように、頑張るね」
夜の風が、彼女の髪をさらりと撫でていった。
俺の胸に、ふわりと何かが灯ったような、そんな夜だった。