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第5話 『湯けむり、指先、恋心。修学旅行初日』

「すご……っ」


 その一言が、口から自然とこぼれた。


 山を越え、川沿いを抜けて辿り着いたのは、三千坪の敷地に、伝統ある木造の館。

 名門・神代学園の修学旅行先は、星五つの老舗温泉旅館『花霞(はながすみ)』だった。


「うわぁ、すごい旅館だね!」

「めちゃ広いじゃん! なにこれヤバくない!?」


 クラスメイトたちが歓声を上げる中、俺は周囲を見渡した。

 ヒノキ造りの渡り廊下。手入れの行き届いた庭園。川のせせらぎに混じって、鳥の声すら聞こえる。


……すげぇ。今まで行ったどの旅行とも、まるで格が違う。


「ふふ、ユウトくん。驚いた?」


 横から笑いかけてきたのは、生徒会長の鏡ヶ原つかさだった。

 制服の上から旅行用の薄手の上着を羽織り、髪を緩く結っている。

 いつもより柔らかく見えるその表情に、ドキリとした。


「会長が手配したの?」

「正確には、生徒会の伝統よ。毎年、神代学園の修学旅行は“学園を象徴するような品格のある場所”で行うって」


 つかさは、少し得意げに笑った。


「だから、楽しんでね。今日だけは、生徒会長じゃなくて、“ただの女の子”でいたいから」


 その言葉に、俺は思わず言葉を失った。

 つかさの目が、普段よりずっと近く感じた気がした。


 ◆◆◆


 夕方。

 チェックインを済ませ、部屋に案内されたあと、自由時間。


「ユウト先輩っ! 温泉、一緒に行きませんか♡」

 部屋を訪ねてきたのは、後輩の黒羽ことのだった。


「いや、混浴じゃないし……」

「男子風呂の前で待ってますからっ。着替え、見張ってますねっ♡」

「いや、それ怖いから!!」


 無理やり脱衣所の前まで連れてこられた俺は、諦めて風呂へ向かう。


「はぁ〜……最高……」


 檜の香りに包まれた露天風呂。

 ちょうど暮れなずむ時間帯で、空が茜色に染まっている。

 湯に浸かりながらぼんやりと空を見上げていると……


「……ユウトくん?」


 その声は、振り向くまでもなかった。


「氷室……? いやちょっと待て!? お前、女子のはずだよな!?」


「……こっちの方が、空が綺麗だったから」

 彼女はタオルを一枚だけ羽織り、湯の淵に腰を下ろす。


「……でも、怒るよね」


「そりゃあもう。ていうか、普通に捕まる案件だろ」

「そっか……でも、捕まってもいいくらいには、ユウトくんが好き、なんだと思う」


 その言葉に、心臓が跳ねた。


「うち、恋とか、よくわからないけど。……でも、お風呂って不思議。言えないこと、言いたくなるから」


 彼女の横顔が、湯けむりに溶けていくように揺らいで見えた。


「……ありがとう。でも、もう出ような? 風邪引く前に」


「うん」


 彼女はそっと立ち上がり、俺に背を向けて歩き出す。

 その小さな背中を見送りながら、俺は思う。


 この旅行で、俺は何人の“好き”に向き合うんだろう。


 夜。

 風呂上がりの廊下で風に当たっていると、浴衣姿のつかさが、手に瓶の牛乳を二本持って現れた。


「はい。一本、あげる」

「お、気が利くね。ありがとう」


 ふたりで縁側に並び、牛乳を飲み干す。


「ねぇ、ユウトくん」


「ん?」


「……私さ。ユウトくんのこと、もっと知りたいなって思ってるの。普通のこと、たとえば……好きな映画とか、家族の話とか。こうしてただ、おしゃべりするだけでも、楽しくて」


 そう言って、つかさは笑う。


「だから、まだ答えは要らないけど。いつか、私を“選んで”もらえるように、頑張るね」


 夜の風が、彼女の髪をさらりと撫でていった。


 俺の胸に、ふわりと何かが灯ったような、そんな夜だった。


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