午後9時。
旅館の大広間に、女子班と男子班が集まりはじめていた。
「はーい、そろそろ布団に入りましょう〜!」
引率の先生の呼びかけに、表向きは「はい」と返事しつつ、
誰もが期待と企みを抱えていた。
そう、修学旅行最大の裏イベント・枕投げタイムである。
「ねえ、男子部屋どこ? 突撃しようよ」
「こっちの枕、絶対羽根入ってるやつ! 破裂させようぜ〜!」
わいわいと騒ぐ女子たちの中に、見覚えのある顔が三つ。
・満面の笑みで枕を掲げているのは、黒羽ことの。
・薄手のパーカーを羽織りながらも眠そうな目をしているのは、氷室しずく。
・やや緊張気味にお菓子の袋を抱えているのは、鏡ヶ原つかさ。
この3人が同じ部屋に入ってくるとか、俺の部屋のセキュリティどうなってんだ……。
「せ〜のっ!」
ふいにことのが枕を投げてきた。
「わっ!?」
俺の顔面にクリーンヒット。
「先輩、油断大敵ですよぉ♡」
そう言いながら、ことのは笑顔で枕をもう一発構える。
その様子はまるで子犬のように可愛らしく、けれど、瞳は本気だった。
「ふふ、ことの……テンション上がってる」
しずくも枕をそっと構える。
無表情だが、唇の端がわずかに上がっていた。
「じゃあ、私も参加しちゃおっかなぁ」
つかさが、躊躇いがちに枕を手に取る。
「……よーし、やるならやるぞ!」
受けて立つ。
この際、文化も常識も関係ない。これは青春の戦いだ!
10分後。
「くっ……完敗……」
布団の山に埋もれ、俺は敗北していた。
見れば、三人とも無傷でほぼ無表情(もしくは満面の笑み)で立っている。
「ふふ……男の子って、力はあるのに、不器用なんだね」
つかさが笑う。
その笑顔はどこか、母性すら感じさせた。
「うぅ、なんか負けたのに、ちょっと嬉しいの悔しい……」
「じゃあ、そろそろ寝よっか」
しずくが小さくあくびをして、隅の布団に入りかける。
「え、寝るのここで!?」
「もう布団敷いちゃったし……」
「さすがに男子の部屋でそのまま寝るのは……」
と口にしたのは俺だったが、誰も帰ろうとしない。
結局、そのまま「女子が男子部屋に泊まる」という、地雷踏み抜き状態が成立した。
◆◆◆
深夜0時過ぎ。
ことのとしずくはすでに寝息を立てていた。
俺も横になっていたが、眠れずに天井を見つめていた。
そんなときだった。
「ユウトくん、起きてる……?」
つかさの声が、すぐ隣の布団から聞こえた。
「……うん。ちょっとだけ」
「だよね、私も。……なんか、緊張して眠れなくて」
つかさは布団を出て、俺の隣にちょこんと座った。
「ごめんね。こんなふうに、押しかけて」
「……いや、俺も、嬉しかったよ」
その言葉に、彼女の肩がわずかに震える。
「……ユウトくんって、ほんとに優しいよね」
しばらくの沈黙のあと。
つかさは、ぽつりと続けた。
「……ねぇ、キスってさ。したこと、ある?」
「……え?」
「私、ないんだ。けど、最近、時々思うの。いつか誰かと、そういうことをするんだって、ちゃんと意識するようになったら……相手が、ユウトくんだったらいいのに、って」
空気が、急に甘く、重くなった。
「もちろん、今じゃないよ。今はまだ、“好き”って、どんな形かわからないし。でも、修学旅行に来て、こうしてみんなと騒いで、……ユウトくんのこと、もっと好きになったから」
つかさの瞳が、すぐそばにあった。
でも、俺は何も言えなかった。
胸がいっぱいで、言葉が浮かばなかった。
「ごめんね。忘れていいよ。……じゃあ、そろそろ戻るね」
つかさが立ち上がろうとした瞬間。
「……ありがとう」
俺の口から出たのは、そのひと言だった。
それだけで、つかさは少し微笑んで、布団に戻っていった。
◆◆◆
翌朝。
早朝から元気にドアを開けてきたのは、春日井メイだった。
「おはようございます、ご主人様。……まさか、女子を部屋に泊めたなどとは、してませんよね?」
「ぎゃあああ!? 朝から修羅場の予感しかしない!!」