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第8話 『メイドの夜会と、恋の決断までの距離』

 夜。

 寮の静かな廊下を、スリッパの音だけが響いていた。


 俺の部屋の前で立ち止まり、姿勢を正すと、彼女は小さくノックした。


「ユウト様、ただいま戻りました。……いえ、“来させていただきました”」


 扉を開けると、そこには春日井メイがいた。


 いつもの完璧なメイド服ではなく、シンプルな私服。

 白いシャツに、淡い青のスカート。

 髪も結い上げず、そのまま下ろしていた。


「……珍しいな。その格好」

「今夜は、メイドではなく“私”として来たかったので」


 メイはそう言って、部屋の奥の椅子にそっと腰を下ろした。


「改まって、どうしたの?」


「……ご主人様に、ひとつだけ、お願いがあります」


 彼女の声は、少しだけ震えていた。


「私は、春日井家の次女として生まれました。良家の娘として育てられ、厳格な教育を受け、『与えられた役割に忠実であれ』と、常に言われてきました」


「だから私は、“完璧な従者”になろうと決めたのです」


「でも――」


 メイは、はじめて俺から目を逸らした。


「“好き”という感情を覚えたとき、それが間違いなのかどうか、分からなかったんです。主に恋をするなど、あってはならない。でも……どうしても、ご主人様が目で追ってしまう」


「笑っていると安心する。傷ついていると、苦しくなる。触れたくなる。もっと知りたくなる」


 彼女の目に、わずかに涙が浮かぶ。


「私は、ただのメイドではありません。“あなたを想うひとりの女の子”です」


 静かに、けれど確かに届いてくるその言葉に、俺は言葉を失った。


「それでも、何も選べないなら、いいんです。……でも、私のこの想いを、知らないままでいてほしくなかった」


 メイは立ち上がり、頭を下げた。


「ありがとうございました。今夜は、これで失礼します」


 背筋を伸ばして、ドアへと向かう。


「……待って」


 俺は立ち上がり、思わずその手を掴んでいた。


「ありがとう、メイ。言ってくれて、嬉しかった」


「……ご主人様」


 その声は、今まででいちばん、柔らかかった。


 ◆◆◆


 その夜、眠れなかった。


 何度も繰り返し、彼女たちの言葉が胸に蘇った。

 それぞれが抱える不安、想い、覚悟。

 何より、俺自身の、気持ち。


(ちゃんと、向き合わなきゃいけない)


 そう思ったとき、スマホが震えた。


 差出人不明のショートメール。


《明日、学園に戻る。忘れてたら困るから、名前だけ教えとくね。雪村アオイより》


 その名を見た瞬間、時間が止まった。


「あの子が帰ってくる」


 次の日の朝。

 つかさが教室で小さく呟いた。


「“雪村アオイ”……あなたの初恋の人でしょ?」

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