夜。
寮の静かな廊下を、スリッパの音だけが響いていた。
俺の部屋の前で立ち止まり、姿勢を正すと、彼女は小さくノックした。
「ユウト様、ただいま戻りました。……いえ、“来させていただきました”」
扉を開けると、そこには春日井メイがいた。
いつもの完璧なメイド服ではなく、シンプルな私服。
白いシャツに、淡い青のスカート。
髪も結い上げず、そのまま下ろしていた。
「……珍しいな。その格好」
「今夜は、メイドではなく“私”として来たかったので」
メイはそう言って、部屋の奥の椅子にそっと腰を下ろした。
「改まって、どうしたの?」
「……ご主人様に、ひとつだけ、お願いがあります」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「私は、春日井家の次女として生まれました。良家の娘として育てられ、厳格な教育を受け、『与えられた役割に忠実であれ』と、常に言われてきました」
「だから私は、“完璧な従者”になろうと決めたのです」
「でも――」
メイは、はじめて俺から目を逸らした。
「“好き”という感情を覚えたとき、それが間違いなのかどうか、分からなかったんです。主に恋をするなど、あってはならない。でも……どうしても、ご主人様が目で追ってしまう」
「笑っていると安心する。傷ついていると、苦しくなる。触れたくなる。もっと知りたくなる」
彼女の目に、わずかに涙が浮かぶ。
「私は、ただのメイドではありません。“あなたを想うひとりの女の子”です」
静かに、けれど確かに届いてくるその言葉に、俺は言葉を失った。
「それでも、何も選べないなら、いいんです。……でも、私のこの想いを、知らないままでいてほしくなかった」
メイは立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました。今夜は、これで失礼します」
背筋を伸ばして、ドアへと向かう。
「……待って」
俺は立ち上がり、思わずその手を掴んでいた。
「ありがとう、メイ。言ってくれて、嬉しかった」
「……ご主人様」
その声は、今まででいちばん、柔らかかった。
◆◆◆
その夜、眠れなかった。
何度も繰り返し、彼女たちの言葉が胸に蘇った。
それぞれが抱える不安、想い、覚悟。
何より、俺自身の、気持ち。
(ちゃんと、向き合わなきゃいけない)
そう思ったとき、スマホが震えた。
差出人不明のショートメール。
《明日、学園に戻る。忘れてたら困るから、名前だけ教えとくね。雪村アオイより》
その名を見た瞬間、時間が止まった。
「あの子が帰ってくる」
次の日の朝。
つかさが教室で小さく呟いた。
「“雪村アオイ”……あなたの初恋の人でしょ?」