[しばらく帰れない]
夜になってクロエが出て行って、スマホにメッセージが入る。
スマホの入っている引き出しにはカードも現金もあったし、スマホ自体もキャッシュレス決済が出来た。
当座の生活費には一切困らない様になっていた。
シュバルツも結構器用な男なので、リルとの生活で困る事は少なかった。
料理もやってみれば初めてでも結構こなせた。
人間界の生活は案外性に合っていたし、リルの世話も慣れてしまえば簡単だった。
リルは出来ない事は多いが、しかしその分聞き分けもいいので、困る事自体少なかった。
クロエは本当に長く帰って来なかった。もう1ヶ月近く、リルとの二人きりの生活を続けている。
すっかりこの生活に馴染んでいる自分がシュバルツは少し怖かった。
…このまま、悪魔の姿も、魔力も戻らなくていい様な、そんな気持ちにさえなっていた。
たまにフラリと帰ってくるクロエはリルを愛でるだけ愛でて、2、3日で出て行く。
これではどっちが間男なのかわからない。
帰って来た時に訊ねる。
「なんでそんな帰って来れないんだよ?」
「『契約』に縛られてんだよ」
そう言ってクロエは背を向けて出て行く。
この生活を維持する為なのか、それ以外に理由があるのかはわからないが、『契約』に縛られているなら、『契約』相手とのその内容次第ではクロエの自由は相当制限されているのだろう。
こればかりはクロエにも契約を結んでしまっている以上、今更どうにも出来る事じゃないのだろうから、送り出すしかない。
いつもの日課、リルに強請られて公園に行く。
今日もリルは黒猫と、黒猫の連れてくる子猫達に唄を聴かせてやっている。
ピャーピャー煩い子猫達もリルが唄う時だけは静かになる。
黒いのやら白いのやら茶虎やら、色々な模様の子猫は全部で六匹いた。
母猫である黒猫の周りでちょこちょこと遊び回っている。
「オタマさん、こないだおなかすくっていってたでしょ?だから、しゅうちゃんにおねがいして、かってもらったの」
横に置いていた猫缶を手に取る。
プルタブを上手く引っ張れないみたいで今にも手を切りそうだ。シュバルツは手を貸す。
「ほら、貸せよ」
サッと奪ってサッと開けてやる。
そしてまたリルに手渡す。
「ありがと、しゅうちゃん」
リルは最初の頃に比べたら、クロエに向ける様な屈託のない笑顔をシュバルツにも向ける様になった。
黒猫と子猫達ははぐはぐ猫缶を食べ始める。
あっという間に猫缶は空になる。
「オタマさん、おなかいっぱいになってよかったね」
リルは黒猫に笑いかける。
黒猫もリルの顔に顔を擦り付けている。
今日もこんな風に穏やかに過ぎていた…。
が、
険のある幼い声が聞こえてくる。
「猫にエサやっちゃいけないのよ!」
幼い少女が仁王立ちして声をかける。
「あんた、リルとかいう、大人なのに子供と仲良くしてる変な大人でしょ⁈誘拐するつもり⁈」
少女は長い髪を編み込まれていて、服も上等そうで綺麗なものだ。靴もそこらの安物では無さそうで、綺麗に磨かれている。
「だぁれ?」
「私は三杉悠香みすぎゆうか。祐太郎の恋人よ!」
リルはあまりよく分かっていない様で、悠香という少女にキョトンと聞く。
「…リルになにかごよう?」
「祐太郎と仲良くしないで‼︎」
「ゆうたろう…?」
シュバルツは補足してやる。
「ゆうちゃんだよ」
聞き覚えのあるあだ名を聞き、リルの顔はパッと明るくなる。
「ゆうちゃんはおともだちだよ」
それを聞いて悠香という少女は激昂する。
「『ゆうちゃん』なんて私でも呼んじゃダメって怒られるのに!なんであんたは呼んでるのよ!」
「⁇」
リルは少女の怒りを上手く飲め込めずにいる。
「いい⁈とにかくもう、祐太郎と仲良くしないで!じゃないと変な大人がいますって警察に言うから!」
悠香はそう言い放つとくるりと背を向けて去っていった。
リルは自分に向けられた悪意を感じて、しょんぼりと肩を落とす。
シュバルツはリルの肩を抱く。
「気にすんな、な?」
「…うん…」
その日からしばらく、リルはずっとしょんぼりとしていた。
いつもなら暖かい陽射しの差し込むリビングで小さな唄声が響く時間もそれはなかった。
それを見守っているシュバルツは、
リルの好物のプリンを作ってやったり、新しい大きな黒猫のぬいぐるみを買ってやったりしたけれど、最初は喜ぶのだが、時間が経つとやはり意気消沈していた。
あまりに長く落ち込んでいるので、リビングのガラス戸の前で膝を抱えて座り込むリルの横に座って声をかけた。
「どうした?そんなにあのガキの言った事が堪えたのか?」
「……あのこはリルのこと、キライなの…」
リルは相手に感応する能力を持つので、悠香の感情も読み取ってしまうのだろう。
「………も、リルのことキライになっちゃったのかな…」
「え?」
「…くぅちゃん、かえってこないの…、リルのことキライになっちゃったのかな…」
そう一言言うとポロリと涙を流した。
リルは今まで心底嫌われるという感情を向けられた事がない。
今までリルと関わって来た者達は、根本ではリルの事を好いていた。
害意はあっても存在自体を嫌った訳ではない。
寧ろその逆でリルの事を愛していた男ばかりだ。
そしてバラクダは彼女を唯一の自身直属の娘として溺愛している。
初めて向けられる嫌悪という感情に自分の存在が揺らいだのだった。
「そんな訳ないだろ…。クロエはお前にベタ惚れだ」
クロエは人の世界でもきっとそれなりのクラスの生活環境をリルに提供してる。
ここまで物を揃えるのは悪魔とて簡単な訳ではない。
悪魔とコネクションを持つ人間がいるのだろう。
そいつらと契約をする。
人として生きる為に必要な物を揃えてもらう為に。
偽造する身分証や金銭そのもの、自分で運用するにしたって最初の資金は必要だ。
契約内容はそいつらの匙加減によって違うだろう。
骨の折れる契約を受けてしまったら長い時間縛られる事もある。
そんな一切を一人でクロエが引き受けてる理由なんて、リルに何一つ不自由ない生活をさせる為以外の何ものでもないだろう。
そんな事はベタ惚れでなければ出来ないし、しない男だ。
シュバルツには簡単にわかる事だった。
「大丈夫だ。クロエがお前を嫌うなんて、絶対に無いから。だから泣くな」
リルを抱きしめてやる。
リルは大人しくシュバルツに抱かれてやはりポロリとまた一筋涙を流した。
「……くぅちゃん、キライじゃない?」
ポツリと呟く様に言った。
「大丈夫だ。クロエはお前を嫌う事なんてない。絶対だ。わかったか?」
リルはキュッとシュバルツの背中に腕を回し、顔を胸に預ける。
「…うん、わかったぁ…」
そうして自分の部屋に連れて行き、添い寝してやって、昼寝をさせてやる。
スヤスヤと寝息を立てるリルを眺めながら、何故だか無力感が込み上げる。
自分の力ではどうにもならない事に直面するこの感じは既視感がある。
そう、仲間を助けられなかった時に感じた、あれとよく似ていた。
リルを残して部屋を出て、スマホでメッセージを送る。
[一回帰れ]