イリーナさまの部屋は和やかな雰囲気に包まれていた。
大きく開けた窓からは気持ちのよい風が流れ込み、生まれたばかりの小さな体を取り囲む者たちは皆、笑顔だ。
ひとしきりくつろいだところで、父さんがオリアに話しかけた。
「オリア。そろそろ一旦、お休みされたらいかがですか?」
「あら、いいのですか?」
意外そうな表情を浮かべるオリアに、父さんはにっこりとした笑顔を向けた。
「ええ。いまなら人手も沢山ありますし。休むなら今ですよ。赤ちゃんのお世話は大変でからね。2、3時間ごとにミルクをあげなければいけませんし、おむつも換えなきゃいけません。今夜からは忙しくなりますからね」
そうだ。赤ちゃんのお世話は大変なんだ。
オレは兄弟がいないから知らないけど。
赤ちゃんはすぐにお腹を減らすし、夜泣きとかもあるからお母さんは大変でフラフラになる。
そこで乳母の出番だ。
だが、お母さんと同じように働いていたら、当然のように乳母もフラフラになる。
それでは、お屋敷の御子さまを安全に育てられない。
だから、スケジュール調整をしっかりするのが執事の務めなんだ。
執事向けの教科書に書いてあった。
オレの予習はバッチリだ。
オレが父さんの横で、ウンウンと頷いているとファウスト辺境伯も口を開いた。
「ああ、そうだな。オリア、休んでおいたほうがいい。今なら人手は沢山ある。オリアには、夜泣きでイリーナが疲れすぎないように、手伝ってもらわないと」
ベッド横の椅子に座っているファウスト辺境伯は、両手を上げてひらひらさせて見せた。
「ふふふ。そうですわね。では遠慮なく下がらせていただきます」
オリアは楽しそうに笑いながら部屋を出ていった。
彼女が出ていったことを確認すると、父さんとファウスト辺境伯は顔を見合わせて互いに頷き合う。
乳母を帰したのは、スケジュール調整のためだけではない。
これから大切な作業があるのだ。
お嬢さまの一生を左右する作業である。
オレはゴクリと喉を動かして生唾を飲み込んだ。
「さて、と。ドアを閉めて、一仕事といくか」
「そうですね、旦那さま」
父さんは白い子猫を足元のカゴのなかに入れると、部屋のドアを閉めた。
室内には、オレと父さん、ファウスト辺境伯夫妻とお嬢さましかいない。
護衛騎士もいるが、部屋の外だ。
ファウスト辺境伯はサッと、室内に防音の魔法をかけた。
これで外に声が漏れることはない。
父さんに促されて、オレは腕の中にいたお嬢さまをベビーベッドへと移した。
「鑑定を楽しむ」
「はい」
ファウスト辺境伯に指示されて、父さんは頷きながら自らに浄化魔法をかけた。
この国で生まれた新生児は、鑑定を受けて魔力量やスキルを確認する。
これは重要な個人情報だ。
安易に他人に知られてはならない。
膨大な魔力量があったり、特別なスキルを持っていたりすると狙われるからだ。
これが平民であれば、魔力量にしてもスキルにしても、大したものは持っていないことが多いから割と緩い。
しかし貴族となれば話は別である。
特にファウスト辺境伯家のように、特別な血筋では要注意だ。
父さんはお嬢さまの鑑定を始めた。
「お嬢さまのお名前は、どうしますか?」
父さんが聞いた。
イリーナさまが答える。
「リリアーナよ」
「そうだ、リリアーナだ。リリアーナと名付ける」
イリーナさまの隣でファウスト辺境伯が名前を繰り返していうのを見て、父さんは柔らかく笑った。
「よいお名前ですね」
オレも父さんに同感だ。
リリアーナさまか。
可愛い御子さまにピッタリだ。
ピンク色の髪にガーネット色の瞳を持つファウスト辺境伯令嬢、リリアーナさま。
素敵な女性に育つことだろう。
どんな方になるのかな。
楽しみだな。
楽しみだな。
オレはリリアーナさまのお役に立てるように、万能執事を目指すぞ。
皆が見守る中、父さんはお嬢さまに向き直るとベビーベッドの上に手をかざした。
青白い光からじわじわと染み出るように広がっていく。
「名前……【リリアーナ・ファウスト】……誕生日……」
父さんが鑑定に必要な情報を入れていく。
オレたちには見えないが、父さんにはリリアーナさまの情報が見えているのだ。
情報を目で追っていた父さんの表情がサッと曇った。
「旦那さま。これは……大変です」
「どうした? トーマス?」
ファウスト辺境伯が青い顔をして、父さんへ食いつくように聞く。
「何か悪いことでも……」
イリーナさまの心配げな声は、外壁にドンッと何かがぶつかる音と、見張り台の鐘がガーンガーンと鳴らされる音にかき消された。