つまり。梓は呪われた王子との結婚のために
国のため、結婚相手がいない王子のために。
「この国には女神信仰がありましてねぇ。女神の加護が聖女様の力の源じゃないかと思うんですよぉ」
緩い、くだけた言い方に戻ったユーリがテーブルの端に置かれていたデカンタを手に取る。
片手でグラスに注ぐと、少し眺めたあとに水を飲んだ。
そんなユーリを叱責するリシアの声が、雑音として耳に届く。
「女神はこの国に魔術を与えて、不可能も可能にした存在でして〜。聖女様の枯れた花を咲かせるなんてぇ、呪いを打ち消すなんてぇ、奇跡のごとしぃ。まさしく女神の加護でしょう?」
もちろんユーリの声もだ。彼が問いかけているのはわかっていても、話している内容がノイズ混じりになっていて上手く聞き取れない。
梓の頭は完全に考えることを停止していた。いや、放棄、と例える方が近いかもしれない。
瞳も
「でも聖女様が元の世界に戻りたいのもわかりますしぃ。うん、一年。一年でどうですかぁ~?」
だがユーリは梓が無反応であることに一切気にかけない。
独壇場とでも言わんばかりに、一人話し続ける。身振り手振りを使って話すユーリは楽しげだ。
「一年間だけ王子の結婚相手として頑張っていただければ、私たち神官総出で聖女様を元の世界に戻せるよう頑張りまぁーす」
ユーリは「一年だけなら頑張れますよねぇ~? いい暮らしも保証しますよぉ~」と続けるが、一年どころか今日明日にでも帰りたいに決まっている。
ユーリは未だに黙ったままの梓を見て、困ったなぁ、とでも言う風に両肩をすくめる。
そして、
「ま、お返事は明日でもいいですよぉ~」
と言って梓の背中に手を添えていたリシアに声をかけた。次の仕事があるから、と帰り支度をするように彼はリシアに言う。
それに対しリシアは首を振って拒否した。梓を放っておけない、と。
やはりこの会話も梓の耳にはしっかりと届いておらず、とても不明瞭だ。だが、ユーリが話したいことは話したゆえに帰りたがっている、というの態度でわかったから。
梓は彼らと視線を交わすことなく、重く閉ざしていた口を気合で動かした。
「あの……」
消えてしまいそうな声。リシアが梓の発言を聞き漏らすまいと顔を近づけてくる。
やや間が空いて。彼女が「どうされましたか?」と言いかけた時。
「一人に、してください」
という梓の悲痛な願いがぽつりと、部屋に落ちた。リシアの手が梓の背中から離れる。
そしてまた彼女も小さな声で「……かしこまりました」と言うと、素早く片づけをしてユーリと共に部屋から出ていった。
二人が出ていく時、開けたドアから廊下の冷気が入ってきて寒い。
梓はチェアの座面に自身の足裏を乗せ、腕で足を抱えるようにして丸くなった。
「ここはどこ、なの」
今もなおユーリがいれば、「クライツ王国ですよぉ~」と呑気に答えてきそうな梓の独り言。
返答されるのも鬱陶しいが、誰にも拾われないのもまた梓の心を
◇
「身体、バッキバキだ」
気が付けば寝落ちていた梓。
肘掛けにもたれていた頭が落ちて、ガクンッとなった際に目を覚ます。
だが目が覚めたと言っても、瞳は
というのも、梓が座っていたのは二人掛けのチェア。ベッドではないところで寝たせいで、身体が悲鳴をあげていた。
特に痛む腰に手を当てながら上体を起こす。
すると、一枚の布が身体を滑り床へと落ちた。
「毛布……?」
布は薄手で四隅にフリンジがついていて可愛らしい。床から拾い上げて両手で持てばまだ温かく、ついさっきまで自分にかけられていたことわかった。
梓はあたりを見渡す。誰もいない。
でも誰かが梓が眠りについている頃に訪ねてきたのは間違いない。テーブルの上に寝る前まではなかった小皿が置いてあった。
小皿には折りたたまれた紙が乗っており、恐る恐る開けば中に茶色い粉末が入っていた。
「変なにおい」
美味しそうとは思えない匂いだ。例えるなら、漢方だろうか。父親が自宅で飲んでいたソレに近い匂いがする。
小皿の横には手の平サイズの透け感のある紙もあり、そちらは折りたたまれることなく置かれていた。
何か字が書いてある。平仮名でもカタカナでも漢字でもない。アルファベットでもない。
それはユーリ達に見せてもらった地図と同じ、記号に似た字だった。
「……読めないな」
そういえば医師を後で
粉末の物はもしかしたら頭痛薬なのかもしれない。記号が羅列してある紙は置手紙で、頭痛薬だから飲んでくれ、とか書いてあるのかも。
と、想像を働かすが記号らしき文字を読み解くことは出来ないし、部屋に誰もいないので答えはわからないままだった。
梓は粉末が入った紙を小皿に戻すと、薄掛けを肩に羽織って窓の方へ歩いていくと、おもむろに目の前の窓を開ける。
「相変わらず綺麗な景色」
窓の向こうに広がる広大な庭園と深い森と青い空。素晴らしい光景は時の流れに伴い、また違った表情をする。
青空の奥にはひっそりとオレンジ色、夕暮れが近づいていて。
それが余計に情緒をあふれさせる。きっと旅行か何かで見たのであれば、心から楽しむことが出来ただろう。
(朝あった頭痛はもうない。気分もそこまで悪くない)
梓は自身の頭に触れた。そこは頭痛を感じ取った場所だ。米神をさすっても、痛みの名残はない。倦怠感も多少はあるが、横になっていたいほどでもなかった。
「こういうところは異世界に来てもかわらないんだなぁ」
裏山が遊び場であった梓。野山を駆け回ることでついた体力は、ウィルスに負けることも滅多になく、風邪もインフルエンザも数えるほどしか経験したことがない。
多少の不調も寝ればすぐ回復する身体で、羨ましいと友達に言われたこともあるくらいだ。
「もしかして、これって聖女の力?」
自然と湧き出た疑問を口にし、慌てて首を横に振る。
(そんなことない……! あんな、枯れた花を復活させるような力はなかったよ!)
この頑強な身体は育つ過程で培ってきたものだし、生まれる際に親からもらったものだ。
梓の家族はみんな、程度の差はあるものの元気が取り柄の一家。だから聖女の力なんて最初から持ち合わせていなくて。
梓の心に父、母、友達の顔が浮かんで消えていく。口元をぎゅっと引き結んだ梓は、自身の首元に触れた。そこには頸動脈に沿って、ケロイド状の跡がまだあった。
「……よし」
梓は肩にかけていた毛布を取り、軽く畳んで床に置く。そして決意するように声を出すと、勢いよく窓枠に足をかけた。
いわゆる腰高窓と呼ばれるサイズの窓。その窓枠に両足を乗せ、上の窓枠を両手で掴むと窓を開けた時よりも風が全身に当たった。
梓は努めて深呼吸をすると、
「せいっ!」
と、部屋の外へと大きく飛んだ。