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第12話「そして、世界は“職”をやめた」

雨が上がっていた。


しかし空気は重い。濡れたアスファルトが冷たく蒸気を立て、倉庫街の空を曇らせている。まるでこの国の未来みたいに。


「……灯に、会ってくる」


スモークが晴れたあと、まゆらはただそれだけを言って、立ち去った。


彼女の背中を見送るリュウは、缶ビールをプシュッと開けながらつぶやく。


「なぁ、ハル。お前、さっきから顔色やばいぞ」


「……見えたんだよ。灯の“裏側”が。彼、もう――ギリギリだ」


毛布を首まで引き寄せながら、ハルはつぶやいた。


「“この世界から退職したい”って言葉、あれは……詩的な比喩なんかじゃない。本気で、エンディングを探してる」


「それって、まさか……」


「うん。今回の依頼、いつもの“代行”とはわけが違う。魂ごと、持っていかれるかもしれない」




◆◇◆


午後11時14分。廃校となった中学校の音楽室。


扉を開けると、そこにはポツンと少年の背中。


白いパーカーにフードをかぶった、どこか透明な背中。


「よく来たね、まゆらさん」


ピアノの前から振り向いた白瀬灯は、微笑んでいた。


笑顔なのに、全然、あったかくない。


「おでんちゃん、って呼んでいいのかしら」


「うん、みんなそう呼んでた。でもさ、もうおでんじゃないかも。出汁、全部抜けた気がする」


「……あんた、何歳?」


「17歳。だけどさ、なんかもう、心は定年超えてる」


まゆらは静かに近づき、ナイフの置かれたピアノを一瞥した。


「それ、飾り?」


「試しに置いてみた。“逃げ道”が見えると、安心するんだ」


灯の声は不思議に静かで、澄んでいた。


「学校ってさ、システム化された“幸福ごっこ”じゃない? みんな笑顔、仲良し、努力と根性で青春キラキラ。でも、中身はボロボロ。SNSで悪口、内申で首絞め合って、先生は事なかれ主義……」


「だから“世界退職”したいってわけ?」


「うん」


灯は答えた。


その目は、何も映していない。


「僕ね、誰にも嫌われないために生きてきた。全方位好感度。でもそれって、どんどん自分を削るんだよね。好きなものも、嫌いなものも、みんな“ナシ”にして、無味無臭になる」


「そりゃ、きついわね」


まゆらは隣の椅子に腰掛け、ふう、と息をついた。


「でもなあ、あんた。退職ってのは、そういう逃げのための言葉じゃないのよ」


「……そうなの?」


「退職ってのは、“次の居場所”をつくるための決断よ。職場をやめるってことは、“自分の人生の舵を取り戻す”ってこと。何も、消えるための儀式じゃない」


「……でも、もう居場所がないんだよ。親は僕のこと、就職マシーンとしか見てないし。友達も、“便利な人”ってラベル貼ってくる」


灯は自嘲的に笑う。


「まゆらさんは、居場所ある?」


まゆらは少しだけ口元を歪めて、笑った。


「あるわけないでしょ」


その声には、どこか静かな怒りがあった。


「私ね、元ヤクザの秘書やってたの。抗争処理、裏金処理、下っ端の再就職……なんでも屋だった」


「え……それって……」


「“社会の外側”から、“社会のド真ん中”に押し出された。しかも、元極道って経歴は一生消えない。履歴書に書けない過去がある。警察にも睨まれてる。だけど――」


まゆらは灯の目を真っすぐ見て言った。


「それでも、“もう一回始めよう”って決めたのよ。だから、今ここにいるの」


「それって……すごい、ね」


灯の目に、一瞬だけ光が灯った。


「誰だって“再就職”はできるの。それは職業の話じゃない。“生き方”を変えられるってこと。……だから、もう一度考え直しなさい。“この世界から退職”なんて、言葉の選び方が甘すぎる」


「……まゆらさんって、やっぱズルいよ」


灯がぽつりと呟いた。


「カッコよくて、強くて、迷ってても前に進んでる。そんな人に言われたら、僕なんかもう、何も言えないじゃん……!」


その言葉に、まゆらは思わず立ち上がる。


「ふざけんな!」


怒声だった。


「私がどれだけ泥水飲んできたと思ってんのよ! “強い人”なんて、この世にいないわよ! いるのは、“それでも踏ん張った人間”だけ!」


灯は目を見開いた。


「自分を“辞めたい”って言った時点で、あんたはもう一度“始めたい”って思ってんのよ。その心を、裏切るな」


「……まゆら、さん……」


ポロッと、灯の目から涙がこぼれた。


ピアノの上にあったナイフが、乾いた音を立てて落ちた。


「う……うああああああああああああ!」


嗚咽とともに、灯は泣きじゃくった。全身から絞り出すように。まるで、自分の中の「退職願」を全部吐き出すように。


まゆらは、黙ってその隣にいた。


ただ一言、最後にこう言った。


「ようこそ。再就職の世界へ」




◆◇◆


数日後――


廃墟ビルで、ヨハネ田淵が叫んでいた。


「我らが神は言っている! “有給消化は天の祝福”であると!!」


だが、その演説を撮影していたカメラマン(兼信者)が突然マイクを下ろした。


「すんません、田淵さん……俺、就職決まりました。もう、抜けてもいいスか?」


「な、なにィ!?」


「だって、まゆらさんの“再就職セミナー”、めっちゃ良かったっす。履歴書の書き方とか、自己肯定感の保ち方とか……」


「神は言っていなかったのか!? “再就職は資本への屈服”だと!!」


「言ってません。つーか、そっちが宗教だっただけでは……?」


田淵は、その場で崩れ落ちた。


「まゆら……また貴様かァァァァァ!!」




◆◇◆


その夜。再就職代行事務所「極道リセット株式会社」には、新しい依頼メールが届いていた。


件名:「もう一度、生きたいです」


依頼人名:白瀬灯


獅堂まゆらは、赤ジャージのまま、にやりと笑った。


「退職は、始まりよ。さあ、次の“再就職”へ行きましょうか」

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