──現場は静まり返っていた。
港の倉庫街、午後9時23分。人気のないドラム缶の影で、俺は「過去」と鉢合わせていた。
「……よお。ハル坊」
薄笑いを浮かべて立っていたのは、スーツ姿の男。七三分け、銀縁メガネ、手には国章入りのバッジ。
元・厚労省キャリア官僚。
そして俺の元・上司。
「
俺はその名を、呪いのように口にした。
◆◇◆
俺の名前は春日ハル。
かつて、厚生労働省『再就職誘導推進課』に所属していた。
通称、「ナナメ上課」。
――文字通り、世の中の失業者をナナメ上から見下ろし、無理やり職に“ねじ込む”役所だった。
「老人介護? 足りてませんねぇ。ハルくん、この60代のおっちゃん、ちょっと“介護職”に突っ込んでおいて」
「この人、腰悪いって書いてますけど……」
「気の持ちようだよ気の持ちよう。厚労省が“就業可能”と判断したら、それが正解なんだよ、わかる?」
俺は何度も何度も、失業者を、人格ごと“押し込んだ”。
だが――
ある時、俺の押し込んだ中年男性が、配属初日に過労で倒れて、そのまま死んだ。
そして。
彼の家族は、首を吊った。
「ハルくん。辛いだろうけど、これも“社会的合理性”だ」
高堂のその言葉に、俺は全てを捨てた。
ネクタイも、公務員証も、国家という名の保険も。
自分の名前すら。
◆◇◆
「……まさか、あんたが“再就職代行事務所”の連中を見張ってるとはな」
「そりゃそうさ。元部下の“失態”を回収するのも、上司の務めだ。お前が再就職代行屋なんかに関わってると知ってな、上から“掃除しろ”って通達が来た」
「“上”……まさか、厚労省の――」
「上層部なんて飾りだよ。動かしてるのは“再就職市場管理委員会(JREMC)”だ。お前も知ってるだろ? 再就職率99%を誇る国家プロジェクト。その裏にある、本当の意味を」
「……“職がない者に、生存権はない”。あのスローガンは……冗談じゃなかったんだな」
「もちろんだ。働かざる者、食うべからず――ってな」
高堂はポケットから一枚の写真を取り出した。
「こいつを見ろ」
そこには、見慣れた顔。
ヨハネ田淵。
アロハシャツの上から教祖ローブを羽織り、熱く語っている。
「こいつな。実は昔、厚労省の“特別就労プログラム”にいた。元・極道を社会復帰させるって触れ込みだったが……」
「まさか、まゆらと?」
「そう。“同期”だった。だが途中でプログラムは破綻した。理由は――“感情が生まれたから”さ」
◆◇◆
その昔、まゆらと田淵は『極道再社会化プログラム』という実験的な事業の第1号被験者だった。
目的は、暴力団関係者を一般社会に“溶かし込む”。
書類上の身元保証、履歴書の改ざん、心理ケア、就業訓練、果ては脳内ホルモン調整による「従順化処理」まで。
しかし――田淵は拒絶した。
「俺は俺のままで生きたい。社会に“飼い慣らされたペット”にはならん!」
一方、まゆらは――すべてを飲み込んだ。
怒りも、恨みも、自己否定も。
ただ一つ、「誰かのためにもう一度、働く」という意思だけを握って。
二人は決裂した。
田淵は信仰に逃げ、まゆらは実践に残った。
それが今に続く因縁だった。
◆◇◆
「で? その話を、今さら俺にして何がしたい」
俺は睨む。
高堂は笑って煙草をくわえた。
「再就職代行屋は、いまや“厚労省にとっての脅威”だ。自立した職業マッチングが“国の管理”を超え始めている。……だから潰す」
「だったら、まゆらを……!」
「殺しはしないよ。あくまで“制度的排除”だ。契約停止、失業保険対象外、社会信用スコア低下。詰め将棋みたいに、じわじわ追い詰める。そう、“法”の力でな」
「……外道が」
「“外道”とは“制度の外”にある者を言う。だがな、ハル。お前も、もう“内側”の人間だ」
高堂が差し出してきたのは、再就職官特別任用通知書。
俺の名前が記されていた。
「お前に選択肢は二つ。まゆらを裏切って、“制度側”に戻るか。それとも――」
「…………」
「“また、死ぬ”かだ」
◆◇◆
その夜、事務所のキッチンで、まゆらが湯豆腐をつついていた。
「おでん……じゃなかった、灯。あんたこれ食べられる?」
「うん。大根、うまい……ていうか、事務所ってこんなに“家庭感”あったんですね」
「そりゃそうよ。“再就職”ってのは、結局、“家庭”の代わりでもあるんだから」
その言葉を聞きながら、ハルは黙ってドアの前に立っていた。
あの日失ったはずの、“職場”でも“家庭”でもない場所。
だが今は、ここが唯一の“居場所”になっている。
まゆらがこっちを見て、にやっと笑った。
「どした? また厚労省の犬にでも会ったかしら?」
「……いや」
ハルは嘘をついた。
「ただの、昔の知り合いさ」
自分の過去が、すでに“戦場”になっていることを、誰にも言えなかった。
ただ、まゆらの後ろ姿を見つめながら、心の中で誓った。
――今度こそ、この人を“押し込ませたり”しない。
俺は、制度の歯車には戻らない。
そのために、再就職したんだから。
◆◇◆
そして。
その夜、田淵は教団の地下室で、密かに“神託”を受けていた。
「次に再就職するのは――“まゆら”だ」
その声を聞いて、田淵は静かに笑った。
「やっと、お前を迎えにいけるな。俺たちの、最後の就職先に」