「私の注いだ酒がのめないっていふんでふかぁ~」
酒場の一角。
黒髪のぬぼーっとした男と白黒の混じった独特の髪色をした美女が何故か向かう合わず隣り合って飲んでいる。
「ああ~、あたし酔っちゃったかも~」
美女が男にしな垂れかかる。
男は美女のその様子を見つめ、口を開く。
「酔ってないよね?」
「はい」
美女の顔は真っ白な肌で美しかった。
そして、無表情だった。
ここはレイルの酒場『蟒蛇の
なかなかに物騒な名前で敬遠する者もいるが、一度でも訪れた者はこの塒から抜け出すことが出来なくなる。
豪快な店主とその妻、そして、明るい従業員達の元気な接客は明日への活力をもたらしてくれるし、店主の料理はクマのような顔に似合わず非常に繊細でうまい。
その上、うまい酒を冒険者や労働者の為に安くふるまってくれるのだ。
なので、連日夜になれば客であふれかえる。
しかし、今日は一か所だけ、皆から距離を置かれている場所がある。
『あの時助けてくれた○○です』、略して『あのたす』で多くの人々から愛されるカインと、絶世の美女といえるココルの席である。
カインの酒の席を邪魔しないように、そして、ココルの神秘的な美しさに、皆近寄れないでいた。なんだったら従業員さえも近寄れないので、おかみさんだけが彼らの席に料理を運んでいた。
カインは黒髪で、顔はバランスは悪くないがお世辞にも美男の部類ではない。少し垂れ目で少し眠そうにも見える眼、高くも低くも大きくも小さくもない鼻や口。誰も彼の顔に対して嫉妬はしないだろう。身体もまた170を僅かに超えるが、筋肉も冒険者なりについてはいるがあくまでそれなりの身体。スタイルもいいわけでもない。
だからこそと言えるのかもしれないが彼は皆から慕われている。
勿論、彼自身が多くの人を助けてきたことが前提にはある。
そして、そのカインとは対照的なのがココルである。
白と黒のツートーンの髪の毛を今日はサイドポニーにして可愛らしくはねさせている。
顔は美しいの一言に尽き、美女と美少女を足して二で割ったような若さと色気が同居している。長く美しいまつ毛も白と黒が混ざり、翠玉色の瞳をより魅力的に魅せているし、気品ある小さくも高い鼻、可愛らしい小さな口、全てが神の造形物かと思わされる程の整い方だ。
いや、実際彼女は造形物である。
〈自律思考〉の
その二人が楽しく談笑しているだけでレイルの人間は幸せに満ち溢れることが出来る。
だからこそ、人々は暗黙の不可侵条約を結び、彼らの邪魔にならぬよう見守っているのだ。
そして、カインが数杯目の酒を飲み干す頃、ココルが急に『よっちゃったかも~』と言い出したのである。
ココルの身体は魔導具に近い物であるため酔うことなど決してない。
だからこそのカインのツッコミであった。
「ふむ……酒の勢いで一夜の過ちを成功させたかったのですが、難しいですね」
「過ちを、成功……おかしく、ない?」
「おかしくないです。むしろ、正義です」
「ええ……」
カインは酒にそこまで弱くない。だから、顔もあまり赤くなることもなかったのだが、今はココルの積極的な『お誘い』に真赤になってしまっている。
一方のココルは、無表情ながら熱っぽい視線をカインに送る。
「一夜の過ちならよう! オレとどうだい! べっぴんの姉ちゃん!」
と、いきなり酒場の入り口から大声が飛び込んでくる。
どうやら今入ってきたばかりの客がココル達に絡もうとしているらしい。
もうどこかで飲んできたのか顔は大分赤らんでいる。
「おい、アイツ誰だ?」
「最近よそから来た冒険者だな。確か、ディースィーとか言ったか? C級の戦士かなんかだったか」
ディースィーと呼ばれた男は、2メートルを超える大男で腰にはかなり分厚い片刃の片手剣を差している。その片手剣が示す通りディースィーの身体は鍛えられ太い筋肉に守られていた。
「なあ、どうだい? お嬢ちゃん、そんなぼーっとした男よりよ」
その瞬間、ココルの右腕が銀色に光る。
ココルは
その右腕は開かれる瞬間、カインがココルの前に遮るように立った。
「なんだぁあ? お前?」
「すまない、彼女は、俺の連れ、なんだ」
「だからなんだ! とらねえで下さいってか?」
ディースィーは、カインを見下ろしながら笑う。
そして、片手剣の柄をぽんぽんと叩きながら、あざけりの目をカインに向ける。
しかし、酔っ払いの気まぐれは恐ろしい、いきなり怒りの表情に変わり叫びだす。
「うだうだうだうだうるっせえな! その口、いや、全身ぐっちゃぐちゃにしてやろうか!」
ディースィーは片手剣の柄から手を放し、いきなり掴みかかろうとする。
掴んでしまえば、腕力や体重からして圧倒的にカインが不利だろう。
しかし、カインは苦笑を浮かべると、いつの間にか手に付けていたノピア型鍵盤から簡易術式を発動させた。
瞬間、カインは茶色い魔力に包まれる。
〈
『魔力そのものが変質し、物体同士の摩擦を限りなく減らすぬめっとしたもの』を生み出す〈潤滑〉によって、ディースィーは掴み損ねる。
右手が滑って掴み損ねたディースィーは、即座に逆の手で拳を作り、殴り掛かろうとする。
しかし、それもまた〈潤滑〉によって簡単に受け流される。
たたらを踏んだディースィーの視界に入ってきたのは自身の足だった。
いつの間にか、カインの身体と同じような茶色い魔力に包まれた足だった。
「ふっ!」
カインが自身の纏っていた〈潤滑〉を解き、腰を落とし、右肩からディースィーの腹にぶつかっていく。
その瞬間、ディースィーは滑るように後ろへ飛んでいき壁へと激突してしまう。
そして、そのまま白目を剥き崩れ落ちる。
大きな歓声と拍手、そして、賞賛の声が響き渡る。
「流石カインさんだ!」
「カインさん! あんたやるなあ!」
「カインさん! 抱いて!」
カインは掛けられる声に恐縮しながら小さく会釈を繰り返す。
「あ、あの、彼を衛兵か誰かに」
「おいらが行くよ! カインさん! あの時助けてもらった鍛冶屋のドングだ!」
「なら、私も説明しについていこう。あの時助けてもらったギルド事務のフィニです」
「カインさん、怪我はないかい? あの時助けてもらったニッカだよ!」
「カインさん、このことを記事にしてもいいかい? あの時助けてもらった新聞屋のネユウペさ」
『あのたす』の人々にもみくちゃにされながらもカインはなんとかココルの所へ戻ってくる。
「カイン様、ありがとうございました。どうぞ、お飲み物を」
ココルはカインに果実酒の入った器を渡す。
「こちら、こそ。さっきの足元の〈潤滑〉は、ココル、だよね。ありがとう」
カインは、一口飲むと、褒められた時よりも素直に大きく笑いながら礼を言う。
ココルは少し目を見開いたが、カインはそれに気付くことはない。
再び、酒場の『あのたす』達がカインに酒をおごろうと沢山の器をもって押し寄せたからだ。
カインが『あのたす』達に連れて行かれる様子を見ながら、ココルは自分の中にほのかに灯るものを感じた気がした。
その不思議な感覚に、ココルは自分の身体を見つめるが、それ以上の変化はなく、首を傾げつつも顔をあげる。
ふと、カインの飲みかけの果実酒が目に入る。
手に取る。
見つめる。
静かに、口に運ぶ。
器の濡れたフチと、ココルの濡れた唇とが、触れる。
甘い、気がした。
散々もみくちゃにされカインが戻ってくる。
苦笑を浮かべながら戻ってきたカインは不思議そうに首を傾げる。
「ココル、もしかして、お酒に、酔った?」
「え?」
「だって、顔が……」
さっきほのかに灯った気がした何かが熱を持つ。
ココルの中であたたかくてあつい何かが灯り続ける。
胸が、喉が、頬が、瞼があつい。
ココルはこのあつさを知っている。
そして、このあつさがあなたに届きますようにとカインをじっと見つめて、笑ってみせた。