執務室を後にしてから数日間、レアリナはカイゼルとの接触を極力避けるようにしていた。彼の冷淡な態度、そして「形式上の妻」と言い放った言葉が、彼女の心に深い傷を残していた。それでも、この結婚生活を放棄することはできない。家の名誉を守るため、父の期待に応えるため――そんな思いだけが、彼女を辛うじて支えていた。
しかし、屋敷での孤独な生活は、次第に彼女の心を蝕んでいった。夫婦の会話はほとんどなく、召使いたちもどこか遠慮がちで、心を許せる存在は誰一人としていない。夜遅くまで帰らないカイゼルの生活が常態化し、その理由を知る術もない日々が続いた。
そんなある日、レアリナはついに行動を起こすことにした。今のままでは、何も変わらない――そう悟ったのだ。
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その夜、カイゼルは深夜になって帰宅した。いつものように静かに屋敷に入り、執務室に向かう姿を見たレアリナは、意を決して彼の後を追った。彼女は何も言わずに執務室の扉を開けた。カイゼルは一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐに面倒そうな表情に変わった。
「またお前か。こんな時間に何の用だ?」
その冷ややかな声に、レアリナの心は揺らいだ。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「カイゼル様、なぜ私を避けるのですか?なぜ、私に何も話してくれないのですか?」
彼女の問いかけは、怒りというよりも悲しみに満ちていた。その言葉に、カイゼルは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに冷淡な態度を取り戻した。
「避けているつもりはない。ただ、俺の生活に干渉するなと言っているだけだ。」
「干渉ではありません。私はあなたの妻です。せめて、夫が何をしているのか知る権利くらいはあると思います。」
レアリナの必死な声に、カイゼルは小さく溜息をついた。そして立ち上がり、彼女の方に歩み寄ると、冷たい瞳で見下ろした。
「言っただろう、余計な詮索はするなと。この結婚はお互いの家のためのものだ。それ以上の意味はない。」
その言葉に、レアリナの中で抑え込んでいた感情が一気に溢れ出した。彼の無関心な態度に耐え続けてきた日々、孤独に苛まれながらも夫婦としての絆を築こうと努力した自分――そのすべてが無駄だったと告げられた瞬間だった。
「それなら、なぜ結婚したのですか?私は家の名誉のために、自分の気持ちを押し殺してここに来ました。それなのに、あなたは――!」
声を荒げたレアリナに対し、カイゼルは静かに、しかし冷たく言葉を返した。
「お前がここに来たのは、家の名誉のためだろう。それなら、俺が何をしようと、お前には関係ない。」
その一言が、レアリナの心を完全に砕いた。彼女は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。彼の言葉には、夫婦としての絆も、信頼も、ましてや愛情の欠片もなかった。
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執務室を出た後、レアリナは廊下を歩きながら涙をこらえることができなかった。誰にも見られないようにと必死に部屋へ戻り、扉を閉めると、その場に崩れ落ちた。
「どうして……どうしてこんなことに……。」
自問自答を繰り返すが、答えは出ない。彼女はこの結婚生活に何の意味があるのか、どれほど努力しても報われないのかを痛感していた。
翌日から、レアリナは完全に孤立した生活を送るようになった。カイゼルと顔を合わせることもほとんどなく、屋敷の中でも召使いたちが遠巻きに接するだけだった。誰も彼女に寄り添ってくれる者はいない。
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ある日のこと、庭園で一人散歩をしていたレアリナは、偶然にも召使いたちが小声で話しているのを耳にした。彼らはカイゼルについての噂をしており、その内容はレアリナにさらなる疑念を抱かせるものだった。
「最近、カイゼル様はあの秘密の社交場に通っているそうです。」
「まさか、あそこまでして……奥様が気の毒だ。」
その会話に胸を締め付けられる思いをしながら、レアリナは何事もなかったかのようにその場を立ち去った。しかし、その言葉は心の中に重く残り続けた。カイゼルが何をしているのかを確かめる必要がある――そう思わずにはいられなかった。
「このままでは終わらせない……。」
レアリナは小さな声で呟いた。それは、自分自身を奮い立たせるための宣言のようだった。
この結婚生活に疑問を抱きながらも、彼女の心には小さな反抗心が芽生え始めていた。それは、孤独の中で静かに燃え上がる炎のようなものだった。そして、この先に待つ真実と戦いに向けての第一歩でもあった。
――夫婦とは何か、愛とは何か。この答えを求める彼女の旅は、ここから本格的に始まるのだった。