抵抗も虚しく、引越しの準備は着々と進められた。
俺が多少、不貞腐れたくらいで、現実は何も変わらなかった。
友達に別れを告げるのは、思った以上に堪えた。スマホのメッセージ越しに交わされる「またな」という再会の約束が、次々に流れた。
でも、それがどれほどの意味を持つのか。
荷物を詰め込んだ車が、見慣れた街並みを後にする。バックミラーに小さくなっていく景色。
カーナビが示す「水楢村」への道のりにうんざりした。
緑深き山道へと分け入っていった頃に、母さんが窓を開けた。盛りの真っ昼間だというのに、まるで季節が一つ逆行したかのような、不思議な冷涼感が流れ込む。
「あら、涼しいわね」
車酔い気味だった母さんは、少し顔色が戻った。
数時間揺られて着いた水楢村は、曖昧な記憶の風景よりも、ずっとひなびている。
古びた家屋はまばら。お隣さんとお隣さんの距離が果てしなく、田んぼと森、山しかない。
アスファルトの道は途中から細くなり、両脇からは濃い緑が迫ってくる。舗装されてるだけマシだった。
蝉の声は都会のそれとはまるで違いけたたましい。
「セミがうるせえな……」
「あ? ああ、まあ、こんなもんだろ。都会じゃこんなに元気じゃないよな」
車を降りると、むわりとした湿気と、濃い土の匂いが鼻をついた。
太陽の光が、どこか和らいで感じたのは、深い緑が光を吸い込んでいるからだろうか。照り返しが柔らかい気がした。
ばあちゃんの家は、中でもひときわ古い日本家屋で、縁側からは手入れの行き届いた庭が見渡せた。時計の音がうるさかった。
「よう来たねぇ、隼人」
出迎えてくれた、ばあちゃんのなんと小さいことか。
「あ、ああ。ばあちゃん、久しぶりだな」
「大きくなって……また、隼人と暮らせるなんて、ばあちゃん幸せだよ」
「そう? ……べつに、そんな良いことでもないでしょ」
「いいや、そんなことないともさ。きっと、じいちゃんが羨ましがるねえ」
皺の刻まれた顔に優しい笑みを浮かべている、ばあちゃん。あまりにも疲労感と寂寥感が滲んでいて、心配になった。
(……こんな人だったっけ、か? もっと快活でうるさい感じだったような)
あまりにも優しく歓迎してくれるもんだから、かえって居心地が悪い。
じいちゃんの仏壇に線香をあげて、遺影をしばし眺めた。
「じいちゃんもどんな人だったっけ、ね。たぶん、いい人だった気が、する。けど」
誰にも聞けない質問だった。忘れた俺が、薄情者みたいで嫌だった。
荷解きもそこそこに、俺は気分転換を兼ねて、一人で村を散策することにした。そそくさと逃げ出した、の方が正しいか。
「隼人ー、山の奥にいっちゃなんねえぞ。神様が怒るからなー!」
「わかってるよ、ばあちゃん! ……はあ、なにが神様だ」
適当に返事をして、家を出る。ばあちゃんは心配症みたいだった。
舗装されていない小道も多い。ぬかるんだりしてて歩きにくかった。田んぼにはカエルやアメンボがいて、虫の鳴き声が草むらから常に聞こえる。
歩いた先に、ぽつんと色褪せた看板を掲げた商店があった。が、営業している気配はなかった。
「平日だろ、今日。やる気ねえのか」
なんだか、村が寝ぼけてるみたいだった。
角を曲がり、小さな橋を渡ろうとした、その時だった。
――向こうから、誰かが歩いてくる。
すらりとした、自分よりちょっと低い背丈。白いシャツが、周囲の濃い緑の中で際立って見えた。
近づくにつれて、その姿がはっきりとしてくる。色素の薄い、さらさらとした髪。驚くほど白い肌。
そして、目が合った。
吸い込まれそうな、大きな瞳。憂いを帯びる、穏やかな眼差し。
(……夢で見た、あいつに似てる)
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
あまりの衝撃に、足が止まる。そいつもまた、俺を見てわずかに目を見開いたように見えた。
だが、すぐにふいと視線を逸らし、何も言わずに俺の横を通り過ぎていく。微かにクチナシ、のような、甘く懐かしさを帯びた香りが鼻を掠めた。
俺は、振り返ることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。
「って、まさかっ!?」
急いで振り返ったが、彼の姿はもう角の向こうに消えかけていた。
こんな田舎の村で、夢で見た人物に出会うはずがない。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。夢と現実がごっちゃになっているだけだ。
慣れない環境に来ることになって、少し疲れているのかもしれない。
それでも、あの『少年の残像』が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。