ある休日、俺は湊に誘われて、帰り道の途中にある古い神社へ行くことになった。なんとなくわかってた、そこが記憶の先だって。
「昔、よくここで遊んだんだ。隼人くんも、きっと気に入ると思うよ」
蝉時雨が降り注ぐ。鬱蒼とした木々に囲まれた石段を、一つひとつ。
途端に、ひんやりとした空気に変わっていた。肌に心地よい。なぜかここは冷たい風が吹き抜ける。
(……だから、俺はここで遊んだ)
辿り着いた境内は、ひっそりと静まり返っていた。本殿は所々痛んでいる。お化けでも出そうそうだった。
「うわ、すげえ古いな。人、来んのかここ」
「んー。ほとんど来ないみたい。たま~に、信心深いおばあちゃんが参拝してたんだけど、最近とうとう来なくなっちゃった」
「へえ、そりゃ寂しいな」
「でも。……だからこそ、僕たちだけの秘密の場所だったんだ」
「僕たち」とはっきり、湊はそう言った。
(やっぱり、そういう、ことなのか。……忘れてたのは、俺だけなのか)
湊は、神社の裏手にある、さらに小さな杜へと俺を導いた。木々が覆いかぶさるように茂り、昼なお暗い。その奥に、朽ちかけた小さな鳥居があった。
「ここが……僕のお気に入りの場所」
湊はそう言って、鳥居の隣の階段に腰を下ろし、持ってきた文庫本を開く。タイトルは『百年の孤独』。著者はガブリエル・ガルシア=マルケス。
誰だよ、それ。俺にはちんぷんかんぷんだった。
「また小難しそうなの、読んでんだな」
「そうかなぁ? 面白いよ」
「この間は、なんだっけ? 『変身』とか言うやつ?」
「フランツ・カフカだね」
「……仮面ライダーしかわかんねえよ」
俺も隣に座り、何をするでもなく、ただその蝉の声に身を委ねる。思わず、「はあ」と息を漏らした。
時折、湊がページをめくる音だけが響く。
心地よい沈黙。だが、同時に、言いようのない不安感が胸の底から湧き上がってくるのを感じていた。
――果たして、このままでいいのだろうか、と。
「なあ、湊」
「ん?」
「俺たちってさ……昔、ここで何してたんだっけ」
本から顔を上げた湊は、驚いたような顔をして……それから、ふわりと微笑んだ。
「さあ、どうだったかな。でも……隼人くんと一緒にいると、なんだか落ち着くんだ。昔から、ずっとそうだった気がする」
掛けられた言葉が、染み入っていく。やっぱり、間違ってなかった。
俺は思わず興奮して、詰め寄った。
「あの頃はさっ! なんか、おまえ宮沢賢治とか読んでたじゃん!」
「そうだったかなぁ。僕、色々読んでたからなぁ」
「いや、合ってるって! ほら、『銀河鉄道の夜』とかさ! あとあれだ、夏目漱石の『こころ』とか! ああ、でも……なんか洋書が多くてあとわかんねえや」
「……もう。なんだけっこう、覚えてるじゃん」
「いや、思い出してる、のか」と、呟いた湊は、はしゃいでる俺とは対照的に悲しそうだった。泣き出す寸前にすら見えた。
「え? ……ああ、そうだな。けっこう思い出した、ぜ?」
なぜ、喜んでくれないのか。嫌われてるわけじゃないのはわかってる。
俺たちは間違いなく、お互いをかけがえのない存在だと思ってたし、再会できた今も変わらないはずだ。
(なのに、なんでそんな顔をするんだ?)
自分が不味いことを言ったのか、よくわからなくて俺は黙り込んでしまった。
あの頃の湊は、クラスでもどこか浮いた存在だった。明らかに毛色の違うこいつは、近寄りがたい雰囲気で。
他のクラスメイトは、俺ほど積極的に話しかけようとはしなかった。
(……なんで、俺は話しかけたんだったかな)
いや、逆だ。俺が母親の入院でこっちに来た時。
水楢村という田舎で、どうしたらいいかわからずに、さ迷ってた時に、木陰の下から話しかけてくれたのが、こいつじゃなかったか。
でも、湊が時折見せる寂しそうな表情や、ふとした瞬間の優しさに触れるたび、幼かった俺は「守ってあげたい」と思ったんだ。
「なあ、湊。俺さ、謝りたいことが……」
途端、肩に感じる柔らかな重み。湊が、俺の肩に頭を預けて、すやすやと寝息を立てていた。
色素の薄い髪が頬にかかり、無防備な寝顔は、普段の彼よりもさらに幼く見える。また、クチナシが香る。
「あー。前にもこんなこと、あったな」
磨き抜かれた白磁みたいな頬をつついた。柔らかい、そりゃそうだ。
でも、ちょっとひんやりしてた。大丈夫か、こいつ。体温も低いし、線が細くて心配になる。
「ごめんな、俺なんで忘れてたんだろう。お前と離れないってあれだけ言ってたのに。……情けないよな、こんなの友達なんかじゃない」
俺も鼻歌を歌う、じいちゃんから聞いた村の歌。
ゆらりゆらゆら、こかげのゆめ。
かくれんぼだよ、あちらとこちら。
かえらぬみちを、そぞろあるけば。
よとばりこえて、くなどへおいで。
意味の分からない歌だったが、何度も口ずさんだ気がする。こいつと一緒に。
「俺、帰ってきてよかった。お前のところに戻れてよかったよ」
今抱いているこの気持ちは、友情だけじゃない気がする。もっと強く、言葉で表せられない……切実ななにかだ。俺は噛みしめながら、湊に目を向ける。
思わず、俺は吹き出した。
「ぷっ。こいつ、いつの間にか、頭に木の葉を乗せてやがる。タヌキかっての」
手を伸ばし、髪にかかった木の葉をそっと取ろうとした瞬間、湊が身じろぎし、ゆっくりと瞼を開けた。
「あ、わりぃ。起こしたか?」
「ううん……よく眠れたみたい、隼人くんを枕にしたらね」
「俺を枕扱いすんな」
湊はまだ眠たげな目で、悪戯っぽく微笑む。何気ないやりとりに心が満たされた。特別な言葉もいらなかった。
だから、俺はもう、もう忘れない。絶対に。ただ、この距離感を失いたくなかった。