湊の「行ってはダメだ」という懇願は、俺に深く突き刺さった。
触れてはならない真実を隠すための必死さがあった。でも、だからこそ、俺の失われた記憶の答えがそこにあるのだろうと、確信させた。
きっと、あそこに、俺が忘れてしまった全ての答えがある。
「たぶん、このままだと……いけないんだ」
俺は湊を半ば強引に連れて、あの神社を目指すことにした。
「隼人くん、どこに行くんだい? 僕、今日はちょっと……」
「いいから来てくれ」
明らかに動揺している湊の細い腕を掴む。震えていた。ちょっとほっとした。今日は掴める。
少なくとも、今はまだ。
「行こう、湊。俺はお前の言ってる意味が知りたい。俺が何を忘れてるのか、なにがあったのか、全部」
「後悔するかも、しれないよ」
「忘れてるままの方が、後悔する。それに……後回しにして、なんとかなる話じゃない気がするんだ」
躊躇う湊だったが、じわりと諦めにも似た、しかし覚悟の光が浮かんだ。
「そうか。……そうだね、キミの言う通りだ」
俺たちは人目も気にせず、手をつないで歩きだした。
今さら、気になりもしなかったが、横切る人たちは俺たちが視界に入っていないかのような様子だった。
再び、蝉時雨のなか、鬱蒼とした木々に囲まれた石段を登る。
登れば登るほどに空気がひんやりとし、肌を撫でる風が体温を奪っていくようだった。
「今日も天気が良くて、クソ暑いのに。ここは肌寒いくらいだぜ」
「……確かに、ね」
境内は、以前にも増して静まり返っていた。老朽化した本殿が、遠い過去の出来事を無言で語りかけているように見える。
風が木々の葉を揺らす。誰かの囁き声にも聞こえた。
「ここから先だ」
神社の裏手を抜けていく。
時折、地面の土がぬかるんで足元が不安定になって、濃い緑の匂いが鼻をついた。
記憶を頼りに、かつての「秘密基地」へと向かう。
子供の頃は冒険の舞台だったはずの道が、土地勘を失った今は得体の知れない場所へと続く、不気味な迷路みたいだった。
「あっ、思い出した!」
「……なにが?」
「俺たちさ。『散歩』じゃなくて、『冒険』って呼んでたんだ! あー、スッキリした!」
「ああ、なにを言うかと思ったら」
「なんだよ、大事なことだろ? いつも俺たち、二人で冒険してたんだ」
俺がそう言うと、湊は瞼をやや伏せた。白い頬に紅が差す。
「そうだね、大事なことだった」
蔦に覆われた、朽ちかけた小さな鳥居。そこをくぐり、さらに奥へ進むと、かろうじて屋根を残した廃屋が見えた。壁は崩れ落ち、草木に覆われている。
――あった。
かつて俺と湊が「秘密基地」と呼んでいた場所の残骸が、ひっそりと佇む。
屋根には大きな穴が開いていて、それでも、ここが俺たちの聖域だった。
『これ、俺たちの秘密基地な! 誰にも言うなよ!』
『うん! 約束!』
あの頃の湊は、無垢で、俺だけをまっすぐ見つめていた。その瞳には、俺の知る今のような影はなかった。
埃とカビの匂いが混じり合う、懐かしいような、胸が詰まるような空気。
「やべえな、これ。残ってるだけでも奇跡だろ。誰も撤去しなかったのか?」
「……あの頃ですら、持ち主が不明だったしね」
「危ねえだろ、こんなの」
床には、俺たちが持ち込んだガラクタが散らばっている。錆びた缶詰、割れたビー玉、おはじき、そして……隅の方に、色褪せた一冊の絵本が落ちていた。
手を伸ばし、そっと拾い上げる。
それは、湊が大好きだった、星空を旅する二人の子供の物語だった。ページをめくると、幼い文字で、互いの名前が落書きのように並んでいる。
堰を切ったように、記憶の濁流が押し寄せてきた。
ここで、俺たちは肩を寄せ合い、色んなことを話した。お菓子を持ち込んだり、本を持ち込んだり。
「手のひらに名前書いたのも、ここだったなー。思えば、俺らバカみたいなことをした」
「だね~。あんなの、女の子がやるやつだよ。隼人くんが油性ペンでやったせいで、ぜんっぜん消えなくて」
「まあ、消えない方が効果ありそうだったろ」
効果は全然なかったけど、出来ることは全部したかったんだ。
「じゃ、キミは……アレは覚えてるかな」
「アレ?」
「夏祭りがさ、ちっちゃいのがあったんだけど。けっこうお祭りの時期だけ、地元に帰ってくる人も多くて」
「あー、めっちゃ混んでたな。思い出した思い出した」
「そしたら、キミははぐれたらまずいって。今みたいに手を繋いだんだよ」
「そうだっけか。あっ、じゃ、手のひらにお互いの名前を書いたまんまだったじゃん。まだ消えてなかったろ、その時」
「そうだよ。それで……それが僕らが最後に手を繋いだ日だよ」
わざと俺たちは、明るく話した。
この先に進むのを少しでも、後に回そうとするかのように。馬鹿みたいな思い出話をした。二人でびしょぬれになって怒られた話とか、スズメを捕まえようとしたとか、高い所から降りられなくなった猫を助けようとして木から落ちた話とか。
夕焼けが木々の隙間から、零れ落ちる。湊の白い頬が、茜色に染まっていた。
この場所が、俺たちのセカイのすべてだった。
「ああ、そうだ。俺たちは、ここで……」
声が震える。込み上げてくるのは、温かさと、そしてどうしようもないほどの切なさだった。
そして、思い出す。
秘密基地の、さらに奥。大人たちから「決して近づいてはいけない」と言い聞かされていた場所。
鬱蒼とした森の、一番深いところに、それはあったはずだった。