廃屋の裏手から続く、か細い獣道。
一歩足を踏み入れると、空気ががらりと変わった。濃密な湿気、腐葉土の匂い、そして、圧倒的な静寂。
蝉の声も、鳥の声も、もはやここには届かない。すべてから切り離されたような、異様な空間。
「ここから、先。普段は絶対行かなかったんだよな」
俺の呟きに、湊は返事を返さない。
それでも、足は止めるわけにはいかなかった。何かに引き寄せられるように、俺たちは森の奥へと進んでいく。
視界が開けた先に、それはあった。村の大人たちが「近づくな」と口酸っぱく言っていた場所。
苔むした数段の石段。その上に鎮座する、小さな小さな、古びた石の祠。
「
――大人たちが、あれほどまでに恐れていたもの。
ゆらりゆらゆら、こかげのゆめ。
かくれんぼだよ、あちらとこちら。
かえらぬみちを、そぞろあるけば。
よとばりこえて、くなどへおいで。
祠の周りには、いくつもの古びた注連縄が巻かれていたが、そのどれもが朽ちていた。
ここは夢の中で、何度も見た場所だ。
祠を見た瞬間、頭の中で最後の錠が外れた。忘却の彼方に押し込められていた、全ての記憶が、鮮烈な痛みと共に蘇る。
――そうだ。あの日、俺たちはここにいた。
村の子供たちの間でまことしやかに囁かれていた、「石祠を動かせたら願いが叶う」という禁断の
子供が出来ることを全部しても、もうすぐ俺が村を離れることを知った湊。あいつが俯いていたあの日。
「ずっと一緒にいられるように願おう」と、湊は震える声で言った。
「いや、違うなあ。もともと最初に誘ったのは……俺だったな」
考えなしに俺が、そんなことを言ってたんだ。
『なあ湊、石祠動かせたら、何でも願い叶うんだって! 行ってみようぜ!』
『ダメだよ、隼人くん。隼人くんのおじいちゃんに怒られるよ?』
『家出してもダメなんだもん、仕方ねえだろ~』
『もうっ。ダメったら、ダメなんだからね!』
ああ、願ったのは無邪気な願いだ。俺がそんな誘いを続けて。
湊は、限界を迎えてしまっただけだ。だから、あいつは何も悪くない。
石祠は小さいはずなのに、やけに重かった。子供二人の力じゃ、どうにもならない。何度も石を押してもびくともしなかった。何度も、何度も、汗だくになって押した。
夕暮れ時になって、諦めようと湊が言った。
『隼人くん、もう帰ろうよ。僕のわがままのために、こんなに頑張らせて悪いよ』
自分のわがままのために、と言った湊の言葉に、俺は反発した。諦めたくなかった。
『ちげーよ、俺が一緒にいてえんだよ! だから……もう一回やるぞ!』
そうだよ、俺が無理やりやらせたんだ。
「これが最後だ」と、二人で同時に力を込めた、その瞬間。
ゴゴゴ、という地鳴りのような音と共に、石祠が、ほんのわずかに、ずれた。
「やった!」と歓喜をあげた俺たちは、一瞬にして凍り付く。
ずれた先には、地の底へと続くような漆黒が口を開けていた。どす黒い霧が、まるで生き物のように渦を巻いて立ち上り、周囲の空気を一気に冷え込ませた。耳鳴りのような不協和音が頭の芯まで響き渡る。
――そして。
裂け目から伸びてきた、闇よりも暗い、巨大な手が、俺に向かってきた。
恐怖で動けなくなった俺に向かって。
『隼人くんっ!!』
湊が、俺を突き飛ばした。
身代わりになるように、闇の手が、小さな湊の体を覆い尽くす。
『にげ……て……』
地面に転がった俺の目の前で、巨大な闇の手は、湊を覆い握ると、彼を石祠の下へと、容赦なく引きずり込んでいく。
『――湊っ!!』
最後に見たのは、深淵へと引きずり込まれていく湊の、悲しげな、なにかを諦めてしまったような、そしてどこか安堵したような、そんな瞳だった。
湊は祠の下の、底なしの闇の中。
俺は、その場に立ち尽くした。脳が、感情が、完全に停止していた。
恐怖に駆られ、ただ、ひたすらに、あの場所から逃げ出した。祠から響く不協和音も、恐怖と、絶望と、そして、友達を見捨てたという、耐え難い罪悪感。全てを振り切って。
――そして、俺は、あの日の記憶を失ったのだ。
湊を失った、絶望に打ちのめされるがまま。
「あ……ああ……あぁあああああっ!!」
喉の奥から、獣のような呻きが漏れた。
膝から崩れ落ち、土の上に手をつく。涙が、止めどなく溢れてくる。
思い出した。思い出したくなかった。
俺が忘れていたのは、楽しかった思い出だけじゃない。
「俺のせいで、湊が……! 湊がぁぁああっ!」
背後で、木の葉を踏む、かすかな音がした。