静かに、湊の声がした。
「本当に思い出してしまったね、隼人くん」
振り返るのが怖かった。でも、振り返らなければならない。
湊はそこに立っていた。その姿は、以前にも増して儚く、まるで陽炎のように揺らいでいる。色素の薄い髪は、光を透かして、白い輝きを放っていた。
「湊……お前、お前、なんで……! 俺、俺、お前のことを見捨ててっ!」
嗚咽が、胸の奥から込み上げてくる。
なにも言葉にならない。
「いいんだ、隼人くん。キミは悪くないよ」
湊はゆっくりと近づいてきて、俺の前にそっとしゃがみ込んだ。その手が、震える俺の肩に優しく触れる。
驚くほど、冷たい手だった。
「この石祠はね、
湊のどこか輪郭がぼんやりと揺らいで見える。まるで、この世の者ではないかのように。
「境を司る?」
「そう。僕が今までいたのは、その
湊の声は、まるで遠い昔の物語を語るかのように、淡々としていた。
「あの時、僕たちの『離れたくない』っていう強い願いは、神様の力と繋がってしまった。それで神様は、僕たちの願いを、神様なりのやり方で叶えようとしてくれたんだ」
「神様なりの、やり方……?」
「そう。僕を、この境界に留め置くことでね。キミがいつか、この場所に戻ってくるまで……ずっと、ここでキミを待つことができるように。帰って来たキミと、ずっと一緒に過ごせるように」
信じられない話だった。でも、目の前の湊の持つ不思議な存在感が、真実を物語っている。
互いの瞳が合えば、そこには底知れない深淵が宿る。決して、俺を映し出したりはしない。
「じゃあ、お前はずっと……ここで……?」
「うーん。同じような子たちの魂や、神様もいたからね。本当の意味で一人ではなかったよ。……でも、寂しかったな」
「なのに、俺はっ! お前のことを忘れて、今まで……」
「ううん、キミがいつか思い出してくれるって、信じてたから」
湊は、ふっと微笑んだ。幻想に満ちていて、あまりにも美しかった。
「でもね、隼人。キミが記憶を失ったのは……僕が、そう願ったからなんだ」
「え……?」
「神様はね。僕たちが『永久に』離れないように。隔離された世界で、永遠に共にいられるように。そうしようとしていたんだよ」
だが、湊は、俺までもが閉じ込められることは望まなかった。
「隼人くんの記憶を失くしたのは、僕が望んだことだったんだ」
湊の声が、悲痛に響く。
「キミがこの出来事を忘れている限り、キミの願いは神に届かない。認知されることもない。そうすれば、隼人くんは、この石祠へと来ることはないはずだから」
俺が記憶を失くしている間は、神の力は及ばなければ、こちら側へ引き込まれることはない。そういうことなのだろう。
代わりに、神の領域に囚われている間に、湊はもはや肉体を失い、人ならざるものとなっていた。
「僕は……会いたかったけど、会いたくなかった」
湊が、透明な雫を瞳に溜めて、絞り出すように言った。
「思い出してほしいけど、思い出してほしくなかった」
風が吹き荒れる。木々がざわめき、祠から霧が立ち込め、その姿をさらに曖昧にする。
「一緒にいたいけど、来てほしくなかった」
矛盾した言葉の羅列。しかし、それは、湊の深い愛情と、背負ってきた永い苦悩。
「僕の方こそ、ごめんなさい。……キミに忘れたままでいて欲しくないって、思っちゃった自分もいたんだ。だから、姿を現さずにはいられなかった。記憶も完全には封じられなかった。わざわざ呼び起こすような真似まで」
「そんなこと、どうだっていいっ!」
俺は、湊の顔を、その細い体を、震える手でそっと包み込むように抱きしめた。凍えるような冷たさ。けれど、その奥に、確かに湊の存在を感じた。
「俺だって会いたかった! 思い出してよかった! ……忘れたままじゃいたくなかった」
この冷たさこそが、彼が長い間一人で耐え忍んできた、寂しさと絶望の証なのだと、俺は悟ったから。
囁かれた湊の声は、か細く、風に消え入りそうだった。
「――そんなこと、ここで言ったらだめだよ」
その瞬間、俺は理解した。
俺が記憶を取り戻し、この禁則地を踏んだことで、何かが再び動き出そうとしている。
そしてそれは、湊にとって、決して良いことではないのだと。
夕暮れの森に、いっそう冷たい風が吹き抜けた。
蝉の声は、もう聞こえない。