湊の言葉の真意を、俺はすぐに悟った。
俺が、湊と再会できたことを喜び、共にありたいと願った。それは、あの幼い日に石祠に願った「ずっと一緒にいたい」という祈りの再燃を意味していた。
「クソ、またやらかした。のか?」
岐の神は、再び俺たちの願いを聞き届けようとしていた。
祠の奥の暗がりが、まるで生き物のように脈動し始める。
地の底から響くような、重く低い唸り声。周囲の木々が不気味にざわめき、足元の地面が微かに震えている。
「始まっちゃった、ね」
湊が口から零れる、絶望の響き。
その体はさらに透け、風に吹かれる綿毛のように、今にも消え入りそうだ。
「湊、どういうことだ? 何が始まるって言うんだ!」
俺は湊の肩を掴むが、実体が曖昧になってるのか、心許ない感触しかない。
「神様がね、僕たちを、今度こそ本当に……永遠に、この場所に繋ぎ止めようとしているんだ」
「永遠に……?」
「そう。二人で、この『夏の来な処』で、ずっと。もう二度と、離れ離れにならないように」
その言葉は、かつて俺たちが焦がれた夢のはずだった。しかし、今の俺たちにとっては、それは絶望的な未来でしかない。
「どうすれば、どうすれば、お前を、ここから出せるんだ?」
「キミが、僕と一緒にいることを願うのを止めれば……もしかしたら」
「そんなことできるわけないだろ! お前は俺と帰るんだ!」
「はは。……無理だよ、もうちゃんとした身体なんて僕にはないもん」
俺は生きている。湊は、もう、そうではない。確かに、普段ですら希薄になりかけていた。
(もう、一緒にいる方法は他にはない、のか? ……俺は、覚悟を決めるべきなんじゃないのか?)
この境界に留め置かれ続ければ、俺もまた、湊と同じように現世から切り離され、人ならざるものへと変質していくのだろう。
どす黒い霧が、祠を中心に渦を巻きながら広がり始めた。それは俺たちを包み込もうとするかのように、じわじわと迫ってくる。
「もう、なにをしても遅いかもしれない。隼人くんがここに来て、僕を思い出してくれた時点で……僕の願いと、キミの願い。神様の力が、また強く結びついちゃったから」
湊の瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。融け始めた氷のかけらのように、透明な雫。
「ごめんね、隼人くん。僕が、キミに会いたいなんて思っちゃったから……キミまで巻き込んで……」
「謝るな! お前のせいじゃないだろ! もともと全部、俺のせいだ! それに俺がもっと早く思い出してれば、何か……何かできたかもしれないのに!」
そうだ、元凶は全て俺なのだ。俺が余計なことをしたから。
「じゃあ、方法は一つしかないのかな」
湊が、ぽつりと呟いた。
「方法って、なにかあるのか、湊!」
「僕が、この場所と……完全に、一つになること」
「……は?」
理解が追いつかない。湊が何を言っているのか、わからなかった。
「僕が現世に干渉することを諦めたら、いいんだよ。そしたら神様も、もう隼人くんを繋ぎ止めようとはしないと思う」
「諦めるってなんだ、勝手に終わらせんな!」
「僕が神様の領域と完全に同化すれば、境界の歪みは収まって……隼人くんは、現世に帰れるはず。結局、僕が中途半端だから、未練が繋がってるキミにも影響が出ちゃうんだ」
「んなことしたら、お前はどうなるんだよ!」
湊は、ひどく穏やかな笑みを浮かべた。
「僕は、消えるよ。人としての夏生 湊は、完全にね。ああ、でも、もしかしたら……この森の風とか、木漏れ日とか、そういうものの一部にはなれるかもしれないな」
そんなのは、ダメだ。絶対にダメだ。
俺が求めていたのは、そんな結末じゃない。湊が、また俺の前から消えてしまうなんて、考えられなかった。
「ふざけるな! 俺が許すと思うのか!? それなら、俺が代わりに……俺が、ここに残る!」
そうだ、それが一番いい。俺がこの境界に囚われる役目を引き受ければ、湊は解放されるのかもしれない。
俺は、この罪を償わなければならない。湊をこんな目に遭わせた、俺が。
「それは……だめだよ、隼人くん」
湊は、俺の申し出を、落ち着いた様子できっぱりと拒絶した。
「キミには、生きてほしい。生きて、僕のことを……時々でいいから、思い出してほしいんだ」
「……身勝手過ぎんだろ、そんなの。消えて、俺の親友やめる気か?」
「ふふ、その言い方ズルいなあ。あのね、僕は……いや、いいや」
「なんだよ、ちゃんと言えよ」
「ううん、いいんだ。もっと大事なことがあるから」
きつくきつく抱き着く。お互いに、もう時間がないのはわかってた。
「僕にとって、キミと過ごした時間は……本当に、宝物だったんだよ。あの短い夏の日々も……そして、こうして再会できた、この数週間も。僕はずっと、キミのことだけを考えてた」
「俺だってそうだ。これからだって……」
湊の声は震えていたが、その言葉には、嘘偽りのない、深い愛情が込められていた。
細く冷たい指が、俺の頬にそっと触れる。
「僕ね、隼人くんが思い出してくれて、本当はすごく嬉しかったんだ。もう一度、キミの名前を呼べて……キミに名前を呼んでもらえて……」
言いながら、湊の体が、より一層透けていく。輪郭が曖昧になり、背後の森の景色が、彼の身体を通して見えるようになってきた。
「おい、湊っ! しっかりしろ、消えるな! なら、俺はお前と一緒でいい! 連れて行けよ!」
俺は必死に湊を抱きしめ続けたが、とうとう確かな手応えを返してくれなくなった。まるで、霧を掴むかのように虚しく宙を掻く。
ああ、もう触れることすらできない。
「ありがとう、隼人くん……。僕を見つけてくれて。僕を、思い出してくれて」
「やめろ……やめてくれ、湊……!」
「キミは、僕を覚えていてくれる。それだけで、僕は永遠に生きられるから」
俺の悲痛な叫びも、もう湊には届いていないのかもしれない。
湊は、最後の力を振り絞るように、俺に向かって微笑みかけた。それは、俺が今まで見た中で、一番美しく、そして一番悲しい笑顔だった。
細い指が、俺の手のひらをなぞるように動くが、なにも感触はない。
でも、わかる。そこになぞられているのは……名前だ。
「キミと出会えて、よかった……。さようなら、僕の……たった一人の……」
言葉は途中で途切れ、湊の姿は、ふっと、淡い光の粒子となって霧散した。
クチナシの甘い香りが、ふわりと鼻を掠める。
手のひらに残ったのは、ほんのりとした温もりと、そして、どうしようもないほどの喪失感だけだった。
「みなと……? 湊っ!!」
叫びは、静まり返った森に虚しく響き渡る。
湊が消えた瞬間、石祠のずれが徐々に元に戻っていく。
立ち上っていた黒い霧は収まり、やがて地の唸りも止んだ。まるで、何事もなかったかのように、森は再び静寂を取り戻す。
呆然と立ち尽くす俺へ、冷たい風が吹いた。だけどそれは、まるで何かを囁くように、俺の頬を撫で、そして森の奥へと消えていった。
湊は、自らを選んだのだ。
俺を生かすために、俺を現世に帰すために。
そして、自分は永遠に、この「夏の来な処」に溶け込むことを。
どうしようもない怒りと、悲しみと、そして、湊への感謝と罪悪感が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺の胸を押し潰しそうだった。
俺は、ただ、その場に膝から崩れ落ち、声を上げて泣くことしかできなかった。
止める者もいない森の奥で、俺はただ、失われた友の名前を、何度も、何度も叫び続ける。
――夕闇が、ゆっくりと森を包み込み始めていた。