翌朝、スズメに似た鳥の鳴き声がして、エスメラルダは目を覚ました。あれから一晩中、屋敷の奥からジークリンデの呻き声が聞こえていたので少々寝不足だ。姉が助かった事自体は嬉しいが、これが後二日は続くと思うと、心なしか気が滅入りそうになった。
それでも気を取り直して着替えを済ませ、エスメラルダは朝食の為に食堂へ向かった。客人である無明には客間に泊ってもらい、食事もそちらで取ってもらっているが、大丈夫だろうか?どうにも自分達の常識では測れない人物のようだし、あまり長い時間放って置くのもよくないかもしれない。
そそくさと食事を終えたエスメラルダは、まず姉の様子を見に行き、それから無明の元へ向かうことにした。
「ジークリンデお姉様、おはようございま……あら?お姉様がいない」
エスメラルダが姉の部屋に向かうと、そこにジークリンデの姿は無かった。あれほどの呻き声が聞こえなくなっていたので、てっきり部屋で寝ているのかと思ったがそうでもないらしい。通りがかったセバスに聞くと、なんとジークリンデは無明の部屋へ行ったという。慌てて、エスメラルダも姉の後を追い無明の部屋へ向かう。
「失礼します。無明さん、こちらにお姉様が……ヒッ!?」
部屋を開けると、そこには異様な気配を纏った姉ジークリンデと無明が向かい合って座っていた。ジークリンデの方は殺気立っていて、今にも無明を殺しかねない雰囲気である。しかし、当の無明本人はそんな殺気などどこ吹く風で、見た事もない緑色の液体を啜っている。
「お、お姉様…どうなさったのですか?お身体の具合は」
「やぁ、エスメラルダ。大丈夫、身体の方は問題ないよ。自分でも驚くほどに健康そのものだ。……この耐え難い悪臭と、繰り返される複雑な味さえ我慢すればね」
ギロリと無明を睨みつけるジークリンデの額には、見た事もないほどの青筋が立っていた。昨日あの薬を飲ませる事を了承した時から、姉に恨まれるのは覚悟していたが、どうもその恨みの矛先は薬の提供者に向いてしまったらしい。アワアワと慌てながら、エスメラルダは素早くジークリンデの隣に座る。
「お、お姉様、落ち着いて下さい!あのお薬を飲ませる事を了承したのは私なんです!無明さんはデメリットも話してくれた上で、私が望んだことですから無明さんは悪くないんです!どうか、お許しを!」
「エスメラルダ……解っているよ。私があのままでは危なかったという事も、頭では理解している。お前が私の為にしてくれたのだという事もね。しかし、この男は一体何者なんだ?ある程度はセバスから事情を聞いたが、得体のしれない男をあまり信用し過ぎる訳にも……うぉぇ…い、いかない」
「ふむ。姉君の胆力は大したものでござるな。拙者があの薬を飲んだ時は、子供だったとはいえ、二日は寝込んで吐き通しだったものでござるが、いやはや、大したお方でござる。この分なら、これを先にしてもよかったでござったな」
そう言って無明はおもむろに包みをテーブルの上に置いた。布製の包みは中々の大きさで、中にはぎっしりと何かが詰まっているようだ。これは一体なんだろう?と思っていると、包みの端からポロリと見覚えのある物が落ちてきた。
「あ、そ、それは、シャフレールの樹の実!?しかも、そんなにたくさん……どうして!?」
「昨夜、エスメラルダ殿に図鑑とやらを貸してもらったでござろう?あれを見て、念の為にとってきたのでござる。探すのに手間取るかと思ったが、実際はこれだけ集めるのに五分とかからなかったので、余裕で間に合ったかもしれぬな。ハッハッハ」
「くっ!ふざけるな!貴様、私を苦しめてバカにしているのか!?許さんっ!叩き切ってやる!」
「お、落ち着いて下さいお姉様!無明さんはちょっとアレな人ってだけなんです!決して悪い人じゃあ……!」
「アレな人とはなんだっ!?貴様、私のかわいい妹に何をした!?許さんぞ!」
「うーむ。ちと元気になり過ぎのきらいはあるようでござるな。何をしたと言われれば、命を救ったとしか言えぬのだが」
そのまましばらくの間、暴走するジークリンデと、それを抑えようとするエスメラルダの攻防が続き、無明はそれを自前の緑茶を啜りながら眺めていた。
小一時間ほどのやり取りのあと、息も絶え絶えになってしまったエスメラルダとジークリンデは、改めて無明の体面に並んで座っていた。正確に言えば、少しだけエスメラルダとジークリンデの間に距離があるように見える。その理由を何となく察した無明は、敢えてそこに触れる事をせずに二人の為に緑茶を淹れてやった。
「落ち着いたでござるか?これは拙者の故郷で良く飲む茶でござる。遠慮せずに飲むとよい。残念ながら急須や茶器は安物だが、茶葉はしっかりしたものでござるからして」
「……す、すまない。取り乱してしまった。事情はセバスから聞いていたのだ、改めて礼を言わせて貰おう。この度は我が妹エスメラルダと、使用人の窮地を救って頂いた事、それに私の命まで助けて頂いた事に感謝する。ありがとう」
「なぁに、エスメラルダ殿にも言ったが、礼には及ばんでござるよ。人助けなど当たり前のことゆえ。一宿一飯…いや、二飯の恩義と言ってもよいしな」
「いいや、そういう訳にはいかない。我が妹と私の命、そして使用人まで含めた三人の命はその程度でチャラになるほど安くはない。これは貴族として安んずる訳にはいかないことなのだ」
「……おお、確かに。それは失礼仕った。言われてみればお二方とセバス殿の命が一宿二飯では安すぎるというものか。うむうむ、拙者もまだまだ修行が足りぬようだ。相すまなかった、許されよ」
無明は深々と頭を下げ、ジークリンデもそれを了承したように頭を下げた。こうして冷静になってみれば、この二人は中々いいコンビなのかもしれない。普段見られない姉の様子にエスメラルダは少し気分が上がっていた。
「そ、それでですね!せっかくですから、昨日お話していた無明さんのお悩みを聞かせてもらえませんか?せめて、それくらいのお力になれないとってお姉様は思っているんです!」
「ふむ。拙者の悩みを聞いてくれるというなら、正直、これ以上有り難い事はないでござるが、よろしいのか?」
「構わない。むしろ、望む所だ。どうか、私達を頼ってほしい」
「そうか……では、改めて名乗ろう。拙者の名は
「ひの、もと……?すまない、それはどこの国だろうか。生憎だが、ヒムロという貴族にも心当たりがないのだ。それにその、シノビというのも何かは解らない。エスメラルダは解るか?」
「いいえ。私にもわかりません。というよりも、そんな名前の国は存在しないはず……」
ジークリンデもそうだが、エスメラルダも貴族令嬢として、一定以上の教育を受けている。当然、この世界にどれだけの国があり、どんな名称の国があるかなど知識としてもっているのは当たり前なのだ。そして、それを聞いた時点で、無明は明らかに落胆した様子で溜息を吐いた。相変わらず覆面なので表情を読み取る事はできないのだが、覆面の上からでも解るほど落ち込んだ様子だった。
「やはりか……というか、拙者自身よく解っておらぬのでござる。拙者が何故ここにいるのか、何も解らぬ」
「解らない、とは?記憶喪失だとでも?」
「いや、そこまでではない。気付いた時にはいつの間にか、見た事もない草原の只中におったということでござるよ。解らぬのは、ここがいずこの国であるのか。どうやって拙者はここに来たのか、でござる。初めは海向こうの異国かと思ったが、どうやらそういう訳でもなさそうでな。昨晩、夜空を見上げて思ったが、星が全く違うでござる」
「なんだって……?」
星が違うというのは、知識階層の人間からすれば驚愕の答えだ。国によって見え方に差はあれど、星そのものが大きく変わる事などあり得ない。無明自身に間違いがないとしたら、それはつまり、無明が違う星や世界から来た人間という事になるだろう。それを聞いたエスメラルダは、ハッとしてある推量を口にした。
「もしかして……無明さんは、
ジークリンデと無明は言葉に詰まり、静寂が室内を支配する。窓の外では多様な鳥達がさえずり始めていた。