ジークリンデが無明の帰りを待ちながら自室をうろうろとしていると、部屋の窓をコツコツと叩く音がした。もしや、無明が帰ってきたのだろうか?しかし、彼が屋敷を出てから、まだ小一時間ほどしか経っていない。指定した三か所をただ回るだけでも数時間以上はかかるはずだ。例えようもない胸騒ぎを覚えつつ、ジークリンデは窓辺に立って音の正体を確かめた。
「ハヤメ?何故お前だけが……無明君はどうしたんだ?」
窓の外にいたハヤメは、ジークリンデが自分に気付くとさらに勢いよく連続で窓をつつき始めた。早く開けろと言いたいらしい。慌てて窓を開けてやると、ハヤメは焦った様子でジークリンデの肩に飛び乗ってきた。本当に、ハヤメは人間の言葉や気持ちが理解出来るらしい。これだけ出来るとなると、リジェレの立つ瀬がないという彼女の気持ちも解るような気がした。
「ピッ!ピッピッ!」
「落ち着け。そうピーピー鳴かれても鳥の言葉は私には……ん?なんだ、足に何か……これは手紙か?もしかして、無明君がこれを届けるように言いつけたのか?凄いな、芸達者過ぎるぞ」
そう言いながら、ハヤメの足に括られた手紙を開く。そう大きな紙でもないので、決して多くはないがそこには見事な達筆で書かれた簡素な文字が並んでいる。その内容は、既に二つの拠点候補地を調べ上げ、これから最後の場所で向かうという事と、胸騒ぎがするので気を付けろという警告だったのだが。ただ一つ問題だったのは、それが日本語で書かれていたことだった。
「な、なんだこの文字は?全然読めないじゃないか!無明君の世界の文字なんだろうが、これじゃ意味が無いぞ。こんなものを渡されても私にどうしろと言うんだっ……!」
ジークリンデは思いっきりツッコミを入れたが、それを言うべき相手はここにいない。これは、なまじ無明がこの世界の文字を普通に読めているので誰も気付かなかった失態だ。どうやら無明本人には、転生した際にこの世界の文字を理解する能力が備わっていたらしい。だが、書く方の能力はなかったのだ。これではせっかくの手紙も意味を成さないとジークリンデが憤るのも無理はないだろう。
「お嬢様、こんな時間に騒がれてどうされました?」
「あ、ああ……セバスか。何でもない、ちょっと気になる事があっただけだ。……そうだ、落ち着く為に何か温かい飲み物でももらおうかな、頼むよ」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
どうやらジークリンデの叫びは部屋の外まで聞こえていたらしい。ドアの向こうからセバスの気遣う声が聞こえて、ジークリンデは慌てて取り繕う様に返事をしてみせた。特に喉が渇いているという事もないのだが、このまま何でもないで通すには極まりが悪すぎる。とりあえず一旦何かをお腹に入れて、それから無明の帰りを待つことにした。
「無明君はわざわざ起きて待っていなくとも構わないと言っていたが……眠れる訳がないじゃないか。こんなものまで送られて、まったく」
昼間の説教のついでに、ついうっかりと未だ帰らない父親の話をしてしまった為に、無明は父を探しに行くと言い出してしまった。正直に言えば、無明という常識外れの存在ならば、解決してくれるのではないか?という期待もあったが、やはり余計な心配と手間をかけてしまった感は拭えない。そもそも、彼はセバスと妹の命、それに自分の命までもを救ってくれた恩人なのだ。いくら頼れる力を持っているからと言っても、余計な頼みをするのは良くないだろう。
だが、そう思っていても、頼まざるを得なかった自分が情けなく、悔しいと感じる。せめて、無明が帰って来るのを起きて待っている位の事はするべきだとジークリンデは思っていた。
(しかし、これではまるで、夫の帰りを待つ妻のようでは……って!何を考えてるんだ、私は!?あああああ、昼間リジェレがあんなことを言うからっ!)
行き遅れという言葉は、この世界にも普通にあって、それはリジェレがダンジョンコアから聞いた通り、結婚適齢期を過ぎて独身の女性を指すものである。実際、ジークリンデの年齢ならばこの世界では結婚しているか、或いは婚約者がいるのが普通なのだ。特に彼女は貴族であり、ライトニング伯爵家にはジークリンデとエスメラルダの姉妹しか子供がいない。必然的に婿を取るしかないので、一般女性よりも結婚の問題は切実だ。
(大体、私にだって相手を選ぶ権利があるんだ。そう、結婚するならやっぱり私より強くて頼れる相手じゃないと。そういう意味では無明君は悪くないが……って、だから、無明君はそういう相手ではないだろう!?確かに頼れる所はあるけども、彼は人間性にやや不満が!)
頭を抱えて悩むジークリンデ。実を言うとジークリンデは、恋というものに人並み以上の特別な思いを抱いている。彼女の初恋は幼い頃に絵本で読んだ、魔王を倒した勇者だった。異世界から転生してやってきた勇者は、生れ落ちた時から非凡な才能を発揮し、学園で腕を磨いて魔王を倒す旅に出たという。その旅の途中で多くの仲間達やライバルと出会って成長し、最後に世界を救うという壮大な物語は、まだ物心がつくかつかないかくらいだったジークリンデの心に大きな影響を与えたようだ。自分が勇者になりたいと願うのではなく勇者に恋をするあたり、ジークリンデにも恋に焦がれる女の子らしい一面があったということだろう。
だが、ジークリンデに与えられたスキルは『剣神』であり、彼女は子供の頃から既に冒険者ランクでいえばAランク並の実力を持っていた。そんな彼女よりも強く頼れる男性など早々いるはずもない。それでも一縷の望みにかけて学園に通ってみたが、結果は推して知るべしという有り様だ。
強いて言うなら、叔父のロイドがそれに該当するはずだったが、流石に二十近く歳の離れた実の叔父に懸想をすることもなく、ジークリンデはただひたすらにいつか出会うであろうまだ見ぬ実力者への想いを募らせていった。ジークリンデにとって不運だったのは、自身の性格に完璧主義的な所があったことだろう。ジークリンデは自分よりも強い相手を探しながら、自らを鍛え上げてより強くなっていったのだ。
当然ながら、そんな事をしていれば更に出会いの可能性は狭まっていくに決まっている。しかも、厄介なことに、『剣神』のスキルはその所持者に高い能力と強力な成長性を与えるのだ。鍛えれば鍛えるほど彼女は強くなり、余計に男性への要求度が上がる事にジークリンデは気付いていなかった。
こうして、ジークリンデは二十二歳にしてSランク冒険者という実力と、独身彼氏無しの現状に落ち着いたのである。
「はぁ……いい男がどこかにいればな。顔は普通でもいいから、気立てが良くて歳が近くて、収入はそこそこ高めで婿入りに抵抗がなくて、魔王を倒せるくらいとまではいかなくても私より強い男が」
割と無茶な事を言っているが、ジークリンデは本気である。彼女は年齢の割に恋愛観を拗らせていて、こと恋愛に関してだけは夢物語のようなレベルの感覚をしているのだ。
「失礼致します。お嬢様、温かいココフィをお持ちしました」
ちょうどそう呟いた時に、セバスが飲み物を持ってやってきた。自分でも恥ずかしい事を言っていると自覚していたジークリンデは、聞こえていなかったかと焦りながら彼を部屋に入れた。
「せ、セバス!?はっ、入ってくれ」
ドアを開けた瞬間、ココフィの香りが部屋の中に広がっていく。ココフィはその名の通り、ココアとコーヒーの中間のような飲み物だ。カフェインは一切入っておらず、独特の香りが老若男女問わず好まれている。その上、豆の煎り方次第では砂糖を使わずとも甘くなる事から、ジークリンデも大好きな飲料である。既に夜は肌寒いこの時期には持ってこいだろう。ジークリンデは焦りを誤魔化すように、運ばれてきたココフィを一口、多めに飲み込んだ。
「いい香りだな、浅煎りか。やはりセバスの淹れてくれたココフィが一番好きだよ」
「ありがとうございます。ライトニング家にお仕えして早三年になりますが、そこまで気に入って頂けるのは執事冥利に尽きますな。…………それだけに、少々残念でございます。もうすぐお別れになるとは」
「え?」
その瞬間、ジークリンデの目が回って、視界が大きく揺れた。途端に全身が痺れるような感覚がして立っていられなくなる。そして、ジークリンデはカップを床に落とし、その身体を横たえるのだった。