その場にいた誰もが、目を見開き大口を開けて驚いている。いや、正確にはたった一人を除いてだ。
「いやぁ、遅れてすまなかったでござる。しかし、何度も言っておるでござろう、ジークリンデ殿。短気はいかんぞと」
「む、無明……君!?どうしてここに」
「ん?どうしてって、そりゃあ用事を済ませて帰って来たからでござるよ。ちと急いでいたので運び方が乱暴だったが、ちゃんと御父君もほれ、この通り。……よっこいせっと」
背中から降ろされたのは紛れもなくジークリンデ達の父、アレックス本人であった。ただ、相当無茶な運ばれ方をしたのだろう、簀巻きにされている上に顔色は真っ青で口元が汚れている。恐らく、何度か嘔吐したに違いない。無事に帰って来たとは言えない有り様だが、確かに頼んだ通り、無明は父を連れ帰ってくれたのだ。
「ば、バカな……そんなバカな!?あり得ない……あなたはほんの三十分ほど前に、オーガストの森に用意した拠点へ現れたと報告があったはず……!それがどうして今ここに」
「お、オーガストの森だって!?ここからなら、たっぷり100キノ(※1)以上はあるぞ。しかも、道中は渓谷や山があって真っ直ぐには来られないはずだ……!」
「うむ、確かに中々の道程だったでござる。いや、久々に本気で駆けさせてもらった。なぁに、足腰のいい鍛錬になったでござるよ。拙者、日ノ本では江戸から上方まで日に三往復はしておったでござるからな、ハッハッハ!」
「な、何を言っているのか解りませんけど、何だか凄そう……」
異世界人であるジークリンデ達には解らないようだが、無明は本当に江戸から上方……つまり東京―京都間を走って往復する修行を行っていた男である。しかも、現代とは違って舗装された道などではない悪路を走り抜けるのだ。無明の脚力がどれだけ常人のそれを遥かに上回っているかが、よく解るだろう。
無明の放った言葉の意味は解らないまでも、何かとんでもない事をしているというのは理解出来たようで、全員が口を揃えて圧倒されていた。その中から真っ先に復活して声をあげたのはイオであった。どうやら、彼もそれなりに心の強さを持っているようである。
「な、何をバカなことを!人間が100キノ以上の距離を走れるものか!…どうせ何らかの魔法でも使ったのだろう。ええい、セバス!それに騎士共!その男を捕まえろ!」
「し、しかし……」
「しかしもおかしもあるか!こちらにはエスメラルダという人質がいるのだぞ?!何を臆することがある!その男がジークリンデの部下であるなら、エスメラルダを見捨てる事など出来ないはずだ。やれ!」
「ふむ。実は少し前から様子を窺っておったのだが、そこの若いの。お主、将の器ではないでござるな」
「な、なに?!」
「将器ではないと言っている。どうやらジークリンデ殿よりも己が勝っていると証明したいようだが、敵の力を正確に測る事も出来ぬ小物が大将として矢面に立っては、首を取ってくれと言っておるようなもの。確かに、軍の総大将が前線に立つ事で味方を鼓舞する事は出来ようが、それは
「は?……っ!?」
カカッ!という小さな音がしたかと思うと、イオの背後の壁に十字手裏剣が突き刺さっていた。それは、イオの頬をかすめていたようで、つつ…と頬から血が流れている。イオ自身はもちろん、従えている騎士達ですらその行動を見破れたものはおらず、皆再び驚愕して言葉を失っていた。
(は、速い!なんてスピードだ!?私の目でもあれを投げる瞬間が辛うじて見えただけ。解っていた事だが、私が彼とまともにやり合ったら勝ち目など……これが無明君の実力なのか……!)
剣神のスキルを持つジークリンデだけは、その瞬間を目で見る事が出来たようだが、投げられた手裏剣の動きまでは見えていなかったようだ。これまで常に自分より強い男を探し求め続けていたせいか、ずっとどこかで無明と立ち合ったらどうするか?という意識が彼女の中にあったようだが、今の動きでジークリンデは完全に敗北を認めざるを得なかった。そして、ジークリンデの胸が状況にそぐわない高鳴りをみせる。
(む、胸が……キュンとした!?ま、まさか、これが初恋……!)
そう、今まさに、戦わずしてジークリンデは心の底から初めての敗北を喫し、同時にその想いを自覚した。初めて目の当たりにした自分よりも強い男、それは彼女にとって遅すぎる初恋であった。
「解っておるであろうが、今のは外れたのではなくあえて外したのだ。つまり、
まさかジークリンデからそんな目を向けられているとは露も思わず、無明はシリアスにイオ達へ殺気を放っていた。この世界に来てからというもの、どうも真面目に何かをすることが出来ずにいる。何をするにも格好がつかないと言うか、大抵何かしらの邪魔、もしくは茶々が入って実に締まらない結果になるのだ。無明はそれがどうにも不満であった。
だが、今のこの状況は間違いなく自分が望んでいた凛々しい流れだ。この調子なら余計な邪魔やふざけた展開は入るまいと思い、久し振りの感覚に心が躍るようだった。
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……っ!」
一方、ここへきて尚、敗北を受け入れられなかったのはイオだ。学園ではジークリンデに近づく事さえ出来ず、卒業後に腹心の部下であるセバスをライトニング家にスパイとして送り込み、ずっと機会を待っていた。その遠大な計画が、こんなどこの誰だか解らない謎の覆面男のせいで水泡に帰そうとしているのだ。現実を受け入れられなくても仕方がない。だが、彼のそれなりに優秀な頭脳は間違いなく敗北を認めている。その感情と現実で板挟みになって、イオ・フォーマーの理性は遂に限界を迎えようとしていた。
「う……」
「うん?」
「うわああああああん!チクショーーーーーーッ!なんで、なんで僕の思い通りにならないんだあああああああっ!?」
「うるさっ!な、なんでござる!?コヤツ、子供だったのでござるか!?」
「ぼ、坊ちゃま!?お気を確かに!しまった、坊ちゃまの悪癖はまだ治っておらなんだのか?!」
イオの悪癖……それは、思い通りにならないことが積み重なると子供のように駄々をこねるという情けないものであった。この悪癖のお陰で、彼は人付き合いを苦手とし、学園時代も同級生達とはほとんど関わらずに過ごしてきたのだ。幼少期から彼の面倒を看てきたセバスが、計画の為にイオの身許を離れてから三年以上が経ち、すっかり治っていたのかと思っていたようだが、実際はまったく治っていなかったようである。
その場に倒れ込み、ドタバタと手足をせわしなく動かしてもがく姿は、まさに癇癪を起した子供そのものだった。だが、子供のような動きをしても、イオの見た目は立派な成人男性だ。正直に言って、見苦しいとしか言いようがない。何だかとんでもないものを見てしまった気がして、無明もジークリンデも居たたまれない気持ちになってしまった。これではもう、戦う気など起きるはずもない。
「あー、その……何と言うかもう少しその、手心というか。優しくするべきでござったかな?すまぬ……」
「おい無明君。そこで引いてどうする。辛いのは私の方だぞ。何が悲しくて同級生のこんな痴態を見せつけられなければならないんだ……」
「申し訳ございません。どうか、お許しを……」
「僕は負けてないんだあああああぁぁっ!」
「あ、あの人、泣いてるわ……お姉様」
「こ、こら!エスメラルダ、あんなもの見るんじゃない!」
「あんなものとは……」
結局、セバスが白旗を上げ、まるで葬式のようなテンションで事態は一応の終わりを見た。それからしばらくの間、ライトニング家の屋敷からはイオの悲痛な叫びが聞こえていたという。
(※1 キノは距離の単位で、1キノは約1㎞である。)