無明の心に巣食った違和感の正体は掴めぬまま、それからしばらくの時が流れた。そろそろ日も高くなってきて、喫茶店と言えど、食事目的の客が増えてくる頃合いだ。既に三時間近く陣取っているので、これ以上は店に迷惑をかけるだろうからと、四人は場所を変えることにした。
また、この間にいくつかの案が出たものの、どれもフィーリルの現状を打破するには物足りないものばかりだ。中にはフィーリル自身が試したこともあって、事態は解決の目途が立たぬまま時間だけが過ぎていく。
「しかし、場所を変えるにしてもどこへ行こうか。腰を落ち着けて話せる場所がいいと言っても、時間的にな」
「お姉様、一度お屋敷に帰っては?ゆっくりお話できますよ」
「それもいいんだが、女神の瞳を買えなかったからな。このまま帰るのは流石に体裁が……」
そう、今のジークリンデは非常に忙しい身だ。それでなくとも父アレックスが床に臥せっているせいで、代わりにやらねばならない仕事が山積みだというのに、家中のアレコレを取り仕切っていたセバスがいなくなってしまったものだから今のジークリンデはとにかくあらゆる仕事に追われているのだ。今日も本来ならばこなさなければならない仕事があったにも関わらず、女神の瞳を購入するからという理由で追いすがるメイドや部下達から逃げるように家を出てきたのである。さすがに手ぶらで帰るのは気が引けるのだろう。
もう少し時間を空ければ、国教会で働いている神官や神父達の顔ぶれも変わるだろう。そうすれば、先程追い出された事を気にせず女神の瞳を買いに行けるはずだ。それまでは家に帰れないというのが、ジークリンデの本音であった。
「ひとまずこの場は移動した方が良さそうでござるよ。かなり店内が混み合ってきているのでな。歩きながら良い場所を探しつつ話をするのがよかろう」
「そうだな、そうしよう」
そうして、四人は席を立ち、代金を払って店を出る事にした。その時、ちょうどエスメラルダが何かに気付いて声を上げた。
「あら……?すみません、トイレに忘れ物をしたみたいです。すぐに探してきますので、皆様はお店の外で待っていて下さい」
「ああ、待っているから気にするな。気を付けるんだぞ」
「はい!」
タタタッと素早い足取りでトイレに向かうエスメラルダ。そんな彼女をフィーリルは静かに見つめ、溜め息と共に視線を外した。その様子が、再び無明に違和感を覚えさせていた。
(まただ。今のフィーリル殿の態度は、先程何かを見つめていた時と同じ……一体、何だ?何を意味しているのだ)
忍びという存在は本来、草と呼ばれる密偵や諜報、または情報の攪乱が主体である。もちろん、傭兵として戦闘に参加したり暗殺を行うのも仕事の一環ではあるのだが、そもそも彼らは純粋な戦闘者ではない。武芸を極め、心技を鍛え、忠義の為に戦うこと……それは侍の役目なのだ。
そんな忍び達にとって、他人の一挙手一投足を観察しその内心を測る事は当然のことだ。フィーリルがまだ何か隠し事をしているのは明らかで、その秘密を解かない限り、事態が解決しないのではないか?そんな思いが、無明を冷徹な忍びとしての自分に立ち返らせていた。
(むぅ、無明がまたフィーリル君を見つめている。……彼女の歳は私とそんなに変わらないだろうに。やっぱり、彼女のような
かたや、無明に淡い恋心を抱くジークリンデも、無明の様子に関してだけは忍びさながらによく見ているようだ。ただし、彼女はこれが初めての恋であり、また力技で恋愛を押し進めようとする経験しかない彼女には若干ズレた見方しか出来ていない。そうして、また嫉妬して八つ当たりをしてしまうのだ。要は、恋愛に関してのジークリンデは圧倒的に幼いのである。
「お待たせしました!お店の方が預かって下さっていて……どうしたんですか?お姉様」
「……なんでもないよ、エスメラルダ。さて、とりあえず歩こうか」
そんな微妙な三角関係の空気に、笑顔で戻って来たエスメラルダは驚いてしまったようだ。ジークリンデは取り繕っているが、不満げなのは明らかである。まさか嫉妬の目を向けられているとは思っていない肝心の無明は、下手に触れて怒られる事を危惧し、敢えてフィーリルの方を優先している。その態度がまた、火に油を注いでいるとも知らずに。
都合の好さそうな店を探しながら四人で歩いていると、メモを見つめていたエスメラルダがふと、何の気なしに疑問を口にした。
「あ、そうだ。一つ気になったんですけど。フィーリルさんは、その……何十年分も今日を繰り返しているんですよね?」
「ええ、そうよ」
「それで、無明さんに協力をお願いしたのが五回目……あの、無明さんとはどこで知り合ったんですか?」
「たまたま国教会の神殿で知り合ったんじゃないのか?今日みたいに」
「いいえ、違うわ。確かに、無明さんと最初に出会ったのは偶然だけれど、場所は国教会じゃないの。違う場所で偶然会って、そこで私が事情を話して……それで、手を貸してくれると言ってくれたのよ。今日貴方達が国教会に来る事も無明さんが教えてくれたの」
「そうだったのか。その違う場所というのは、どこだったんです?」
「……それは内緒、秘密よ。大事な思い出だから」
「む……!?そ、そうですか……」
(ああ、またお姉様の機嫌が悪く……でも、むくれてるお姉様もかわいい!)
「それで今までの拙者は、どのような手を打ったのでござる?」
「さっきも少し話したけれど、本当に色々ですよ。思いつく限りの手段を試してくれました。例えば、この国じゃない別の国まで連れて逃げてくれたりね。まさか一日で国をいくつも移動するなんて思わなかったけど……それでも結局、日付が変わった瞬間には私は自宅のベッドの上だった。あれは悲しかったわね」
「さ、流石は無明さんですね」
「ふむ、必ず戻るという自宅から距離が離れても無駄ということか。まぁ、本人のスキルのせいなら当然でござろうが」
「時間が巻き戻るというのはなぁ……」
そんな話をしていると、いつの間にか色々な店が建ち並んでいる商店街の通りの終わりまで来てしまっていたようだ。その先は大きな道路とぶつかる十字路になっていて、店などはあまりない。時間帯も相まって、ここまでにあまり長話が出来そうな店は見つからなかった。仕方なく着た道を戻って通りの反対側へ向かおうとした、その時だった。
「こらっ、坊や!待ちなさい、待って!」
ちょうど振り向いた方向から、まだ物心もついていないだろう少年が無明達の方へ走ってきていた。少年は走りながら振り向いて、母親らしき女性が必死に追いかけてくる姿を見て笑っている。親と追いかけっこをしているつもりなのか、このぐらいの歳の子供にありがちな行動だ。誰もそれを気に留めず、少年はすばしっこくこちらへ向かってきた。
「……」
すると、フィーリルはおもむろに、少年の進路を阻むようにして足を一歩踏み出し、彼の進路を塞いだのだ。よく前を見ていなかった少年は勢いよくその足にぶつかり尻もちをついてしまった。そして、その衝撃と痛みから大声で泣き始めた。その時だった。
「っ!?」
ガラガラと大きな音を立てて、猛スピードで走る馬車が大通りを横切っていった。それはフィーリル達の背後であり、もしも少年がフィーリルにぶつかって止まらなかったら、少年は馬車に轢かれてしまっていただろう。見ようによっては、少年はフィーリルに命を救われたのだ。
「ああっ!?坊や、大丈夫?!なんてことを、子供の前に足を出すなんて……!」
「あら、ごめんなさい。でも、こんな所で前もよく見ずに走っては危ないわ。母親なら子供の手はしっかり握っておくべきじゃなくて?」
「なっ……!?こ、このっ!」
「お、落ち着いて下さい、お母さん!」
激昂してフィーリルに食って掛かろうとする母親に、ジークリンデとエスメラルダが仲裁に入る。母親の激情を浴びながらも、感情を殺したように冷たい顔で平然と佇むフィーリルの姿に、無明は一つの答えを見つけたのだった。