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第32話 女神との契約

 突如吹き荒れる風に髪を抑えて、エスメラルダが口を開く。対する無明の表情は真剣そのもので、強い意思を感じさせるものだった。


「冥遁……の術って、どんな術なんですか?」


「冥遁は、相手の魂とその因果へ干渉し、その一部を奪う技でござる。この技が成功すれば、フィーリル殿を苦しめているスキルそのものを消し去るか、封ずることが出来るやもしれぬ」


「スキルを!?凄いじゃないか、どうしてそんな技があるのに今まで黙っていたんだ?!」


「文字通り、魂そのものを削られる事になるのでな。相手は尋常でない苦痛を味わうことになるのでござる。しかも、失敗すれば魂に傷がつく……つまり、命の危険すらあるのだ。非常に難度の高い技であるがゆえ、拙者自身、成功させた所を見たのは一度しかない。賭けにも等しい技なので、試そうとは思えなかったのでござるよ」


「うそ……」


「だが、フィーリル殿がどうせ命を懸けるというなら、この技に賭けてみる価値はあろう。なにより、冥遁は失敗すれば術者である拙者もただではすまぬ。つまり、我らは一蓮托生ということになる……どうでござる?フィーリル殿、どうせなら、拙者とこの技にその命を託す覚悟はあるでござるか?」


「……っ」


 ごくりとフィーリルが息を呑む音がここまで聞こえてきた。冥遁は本来、呪いや避けられない因果へ対抗する為に編み出された術だ。無明の生きていた江戸時代の中頃は、まだまだ近代化とは程遠い、呪いや超自然的な力が存在する最後の時代であった。神代の時代とまではいかないものの、魑魅魍魎は人のすぐ傍にいて、虎視眈々と人間を狙っていたのだ。それ故に、人は神仏に祈りを捧げてその力に縋ってきた。だが、神や仏は必ずしも衆生の全てを救ってくれる訳ではない。

 そこで、人間自らの手で闇の力に対抗しようとしたのが陰陽師や退魔士達だ。彼らは時の流れを経て姿や形を変え、一部が忍びと呼ばれる存在になった。そんな陰陽師の業や技術を継承する者達……それが霧隠衆と呼ばれた、無明の一族なのだ。


 フィーリルの出す答えを待つ間に、既に太陽は地平線の彼方に沈み、辺りには夜が訪れ始めていた。それでも、無明は答えを急かすような事はしない。それだけ、危険な賭けである事を解っているからだ。

 吹きすさんでいた風が徐々に収まり始め、雲間から月の光が展望台に降り注ぐ。柔らかな月光は緊張するフィーリルの心をほんの少しだけ軽くしてくれた。どの道、他に手段はない。ならば、ここで無明の賭けに乗るのも決して悪いことではないだろう。魂を削る事で苦痛をもたらすという言葉は恐ろしいが、今ここから飛び降りて死ぬ事も十二分に恐ろしいのだ。


 フィーリルは息を整え、静かに、しかし強く頷いた。そんな彼女の決意に応えるように無明はフィーリルの手を取り、四人はその場を後にするのだった。






「この部屋なら空いているが……今度は何をしでかすつもりなんだ?」


 そうして無明達がやってきたのは、冒険者ギルドである。冥遁の術を使うには儀式的な準備が必要な為、ライトニング家の屋敷ではやりづらいらしい。それでなくとも人手不足でアタフタしているライトニング邸で、怪しい儀式のような事をやり始めるのはまずいだろう。その点、冒険者ギルドは夜になれば人の出入りがグッと減るし、それなりに広く空いている部屋も多い。何より、ギルドマスターであるロイドはすっかり無明のメチャクチャな能力に慣れてしまっているので、余計な騒ぎを起こす心配もないのだ。まさに理想的な環境と言えるだろう。


「うむ、ここなら上出来でござる。すまぬな、ロイド殿。詳しい事はジークリンデ殿から聞いてくれ。拙者は色々とやらねばならぬ事があるのでな」


 ロイドに案内された部屋へ入ると、無明はすぐさま準備に取り掛かった。いくつもの蠟燭を配置し、床には梵字を始めとした大量の文字や記号を描いている。凄まじい勢いで書き上げていくその速さに、ロイドはまた無明が分身しているのかと思ったほどだ。


「ありがとう、ロイド。何と言うか、人ひとりの命がかかっているんだ。私にもどうなるか解らないが、しばらく様子を見ていてくれ」


「なんだか要領を得んな。……まぁ、無明がとんでもない事をやらかすのはもう慣れた。とりあえず、お前らの用事が終わるまではここには誰も近づかないよう職員にも言っておくから安心してくれ。それじゃ、俺は自分の部屋にいるからな」


 ロイドはそう言って、気だるげに自分の部屋へと歩いて行った。ギルドマスターであるロイドは冒険者ギルドの二階に自室を持っていて、ほぼここに住み込んでいるらしい。以前は別に住居を持っていたのだが、あまりに残業が続いた為に二階の空き部屋を自室にして住む事にしたのだそうだ。恐ろしいほどの社畜っぷりである。


「……よし、準備はこれでよいでござろう。フィーリル殿、ジークリンデ殿も中へ。エスメラルダ殿は外で待っていて下され」


「わ、わかった!」


「お姉様、無明さん、フィーリルさんも……が、頑張って下さいね!」


「ありがとう。それじゃ、無明さん。宜しくお願いします」


「うむ、心得たでござる。それでは、フィーリル殿、気を楽にしてその陣の中へ。横になって下され」


 フィーリルが指定された場所へ横になると、どこからかとても落ち着く香りがして不思議と気持ちが楽になった。どうやら、白檀を焚いているようだ。そして自然と眠気が訪れて、そのまま深い眠りへと落ちていった。


「無明……」


「大丈夫、眠っているだけでござるよ。では、これより拙者は幽体を飛ばし、フィーリル殿の魂と対峙する。その間、拙者もフィーリル殿も身体は動けぬので、ジークリンデ殿は傍にいて何かあれば対処してくだされ」


「あ、ああ!」


「では、始めるでござる。……オン・マリシエイ・ソワカ…オン・マリシエイ・ソワカ……」


 無明が唱えているのは、摩利支天の真言だ。冥遁の術は分身の術と同様に摩利支天の加護を力とし、己の幽体を肉体から乖離させて術を行使する。無明の言葉通り、術の間は肉体が無防備になってしまう事も冥遁が難易度の高い厳しい術と言われる所以である。完璧に安全な場所、状況など早々ある事ではないからだ。


 真言を唱える内に、無明は自分の意識が急速に広がっていくのを感じた。幽体とは、所謂、霊魂と呼ばれる魂の状態よりも肉体に近い精神体を指す。剥き身の魂は肉体にも縛られない根源的な形であるのに対し、幽体は魂が肉体との繋がりを残した形態である。幽体が肉体から離れると、強く自我を保とうとしない限り、意識が拡散してしまう。意識が広がっていくように感じたのはそれが理由だ。無明は精神を集中させ、自分の身体を少しずつイメージして自我を固定させた。


 そして目を開けると、目の前には暗がりでぼんやりと光るフィーリルの姿が見える。


「これがフィーリル殿の魂でござるな。……む、あれは」


 横たわるフィーリルの額に小さくキラキラと光るものがあった。それは宝石のようにも見え、美しく光を湛える水面のようでもあった。近づいてみると急激に強い光が放たれて、あっという間にフィーリルを飲み込む大きな光の柱へと変化した。この途方もないエネルギーこそが、彼女を時の中に閉じ込めていた要因なのだ。


「こ、これはなんという……!?これほどの力がフィーリル殿の魂を縛っておったのでござるか。これでは逃れられぬ訳だ」


 無明が圧倒されるほどの光の柱はフィーリルの魂を取り込んで、なお一層の輝きを放っている。どうしてこれほど強大な力が個人に与えられているのかが不思議だが、問題はこの力をどうやって打ち消すかだ。


「如何にしてこの力からフィーリル殿を解き放つか……うっ!?あ、頭が……!こんな時に!」


 その時、不意に無明の頭の中で誰かの声が聞こえた気がした。それと同時に意識が混濁し、こちらに来てから何度も経験した激しい頭痛が無明を襲う。これまで無明がこの頭痛に苦しんだのは、いずれも過去を思い出そうとした時、それを止める様な感覚だった。だが、今は違う。何かに気付いた無明の記憶の扉が開くような、そんな感覚がする。その脳裏に浮かぶのは、ここではない場所、光に溢れた白い世界と眼前に立つ美しい女性だった。


 その手に天秤を持った女性は、無明を前にして静かに語り掛けてきた。


 ――無明、志を持って戦い、命を落とせし者よ。どうかこの世界を守って欲しい。今、世界には危機が訪れています。もし聞き入れてくれるなら、新たな命と肉体、そして力を授けましょう。


 ――今更、生に未練などないが、世の為人の為というならば力を貸すのはやぶさかではない。しかし、拙者に出来ることなど限られておるぞ。


 ――大丈夫。裏切りの憎悪に飲まれず、身命を賭して主君を守り切った貴方ならば、必ず出来るはずです。さぁ、目覚めなさい。目を開けば、そこは――


「はっ!?」


 そして再び、無明の意識が覚醒する。それは、かつて無明がこの世界へやってくる直前に出会った、女神を名乗る存在との邂逅の記憶だった。彼の女神は言った、この世界に蔓延るいくつもの危機を救うために、力ある魂を集めているのだと。日本で命を落とした無明は、女神によって選ばれ、この世界で生まれ変わったのだ。


「そうか……拙者はやはり、あの時に死んでおったのだな。だが、氷室の姫様を護りきれたのが唯一の救いか。しかし、世界を救えと言われても肝心の危機とは何を意味するのかとんと解らぬ。まったく、女神殿はつくづく説明が足らぬ御仁のようだ」


 無明は苦笑しながらも、記憶を取り戻した事で女神から与えられた力についても理解が出来た。そして、右手に力を込めるとそこには手のひらに収まるほどの小さな結晶が現れていた。


「よし、これならば……さぁ、フィーリル殿を縛り付けし大いなる力よ!あるべき場所へと還るがよい!」


 無明が結晶を光の柱へと向けて叫ぶと、手の中の結晶が大きく輝き、やがてフィーリルを包む光を吸収し始めた。瞬く間に光を取り込んだ結晶はほのかに熱を持ち。後には安らかな顔で眠るフィーリルの魂だけが残ったのだった。


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